◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第142回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第142回
第8章──追跡 06
4回目の公判前整理手続期日。都築は裁判長の能代と火花を散らす。

 能城は志鶴ではなく目の前の中空を見上げ、しばらく無言でいたが、右陪席の女性を向いた。

「近時では刑事訴訟法を学ばずとも司法試験に合格できる運用がなされているのか?」

 右陪席の女性は笑うべきかそうするべきでないか正解がわからぬ様子で、顔を引きつらせた。

「刑訴法316条の2──」能城は正面を向いてそらんじる。「"裁判所は、充実した公判の審理を継続的、計画的かつ迅速に行うため必要があると認めるときは、検察官、被告人若(も)しくは弁護人の請求により又は職権で、第一回公判期日前に、決定で、事件の争点及び証拠を整理するための公判準備として、事件を公判前整理手続に付することができる"」

「充実した公判を迅速に行う──そのために争点や証拠の整理が必要って意味ですよね? 個人的に気になるのが『迅速』っていう言葉です。公判が迅速に行われることの受益者って誰なんだろう。本業が別にある裁判員とか──あっ、案件たくさん抱えて忙しい裁判官とか?」

「当事者にとっても当然意義があろう」

「馬鹿言わないでもらえますかね」志鶴は鼻で笑った。

 検察官たちと田口の注意が集まり──能城も初めて志鶴を見た。志鶴は尖(とが)った鼻にかかる眼鏡の奥の能城の三白眼を捉え、微笑んだ。

「当事者の最たる増山淳彦さんは、もう八ヵ月も無実の罪であなた方裁判官の誤った判断で不当に身柄を拘束されている。彼にとって本当に充実した公判が行われるなら、今さら二日や三日、一週間や二週間その分時間がかかっても屁(へ)とも思わないでしょう。本当に充実した公判が行われるなら、ですが」

 能城のこめかみの筋肉がわずかに動いたのを志鶴は見逃さなかった。右陪席も左陪席も能城には逆らえない。都築のようなベテランはまだしも、自分のように若い弁護士からこんな反撃を受けた経験はおろか、想像したことすらなかったのかもしれない。

「公判前整理手続の目的が『争点及び証拠の整理』であるなら、まず定義をはっきりさせていただかないと」志鶴はデスクの上でポケット六法を開く。「刑訴法の何条何項に書いてありますかね?」

 能城が志鶴から視線を離し、正面を向いた。彫刻のように動かなくなる。挑発に乗ったのもここまでか。そう思ったとき、

「刑訴法にはないが、争点と証拠の整理はこう解釈される。すなわち、両当事者の主張の対立点から犯罪事実の存否の判断を左右する事実のうち争いがあるものを見極め、判断に必要な限度において主張及び証拠を整理すること」

「その定義に則(のっと)れば、どのような実務が想定されると?」

「検察官が証拠構造の明確な証明予定事実記載書面を提出し、弁護人はそれに応じて、直接証拠型では補助事実レベル、間接証拠型では間接事実レベルまで、争う点及びどのように争うかを予定主張において明示する。そのうえで裁判所が証拠の採否を決する」

 想定どおりの回答だ。

「おかしくありません? 裁判員裁判では、裁判員と裁判官が評議して事実認定を行うのが大前提。証拠の評価は公判が始まってからすべきことでしょう。裁判長が言った『両当事者の主張の対立点から犯罪事実の存否の判断を左右する事実のうち争いがあるものを見極め』るっていう、いわゆる『判断の分岐点』自体、個々の裁判員で違う可能性がある。裁判長はその判断の分岐点を公判前に裁判員抜きで裁判官で決めるって言ってるわけですが、それって公判中心主義に反するだけじゃなく、裁判員の心証にあらかじめ枠づけして自由な心証形成を妨げる侵害行為ではないでしょうか」

(つづく)
連載第143回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

【全員、悪人】小説のなかの“極悪人”セレクション
マイケル・サンデル 著、鬼澤 忍 訳『実力も運のうち 能力主義は正義か?』/「努力と才能があれば何にでもなれる」は本当に正しいか