◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第147回

増山とアクリル板越しに話す志鶴。その日は接見する相手がもう一人いた。
第九章──茶番
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「何なんですかね、俺の人生って……」
公判前整理手続での証拠採用決定について志鶴(しづる)が報告すると、アクリル板の向こうで増山淳彦(ますやまあつひこ)が目を落とした。接見室に重い空気が垂れ込める。
「中学校のときいじめられて学校行けなくなってから、いいことなんか一つもなかった。まともな仕事もつけなかったし友達もできなかったし、恋人も──俺をイジめてたやつらは結婚して子供もいるのに。俺だけこんな……何もしてないのに道歩いてるだけでキモがられたり笑われたり、店でも俺だけ冷たくされたり……先生だって俺のことキッショいデブだと思ってるっしょ?」
増山は長身で体も大きい。威圧感を覚える女性は少なくないだろう。志鶴は否定しようとしたが、増山は「俺だって、こんな人間に生まれたくなかったよ!」といきなり声を荒らげた。
「もっと違う人間に生まれたかった。それが無理なら生まれなきゃよかった……。母ちゃんも俺を生んで後悔してるかもしんないけど、俺だって親を恨んでるよ。俺が女に相手にされる普通の人間だったら、あんとき中学生の制服なんか盗もうと思わなかった。それだって失敗したし。俺……女の子なんか触ったこともない」泣き笑いのような顔になった。その目が据わる。「──こんなことになるくらいなら、いっそ本当にレイプでもしとけばよかったんじゃね?」
相弁護人である都築(つづき)と田口(たぐち)の都合がつかず、志鶴は一人で拘置所にいた。志鶴自身、心がぐらついていた。裁判長の能城(のしろ)に貴重な二人の証言の証拠採用を却下されたダメージが尾を引いている。
「先生たちは頑張ってくれてるけど、検察官も裁判官も、俺がこんなだから犯人だろうって決めつけてるとしか思えない。ガキの頃のいじめと同じじゃん。俺なんか誰も助けてくれないって──」
増山は顔を歪(ゆが)め嗚咽(おえつ)した。
増山には四十代の男性なりの成熟が欠けているように感じられることもあった。それを得る機会を奪われたのかもしれない。
法の一線を越えてしまう人たちの中には、生まれ育った環境が違えば犯罪者にならずに済んだのではと思える人も少なくない。世の大半の人が犯罪を犯していないのは「善良」だからというより、そうしなくても生きていける環境にあるからだ。人生は自分では選べないものでほとんど決まってしまう。そういう思いは増すばかりだ。
増山の苦しみを自分が本当に理解することはできないだろう。窓のない小さな部屋は酸素が薄くなったようだった。
「……ほんと、この世界は不平等ですよね。みんな強い人、美しい人、優秀な人が大好きだし、自分が好まない人間には人権なんかなくていいと本音では思ってる。高学歴の人が占めるマスコミも、犯罪者や前科のある人間には人権など存在しないかのように報道する。踏みにじられたことのない者に人権の大切さなんてわからない。法律の専門家でも裁判官みたいなエリートには腹の底からは理解できないんだと感じることはしょっちゅう。あの裁判長を見て増山さんが不安になるのも不思議じゃないです。ただ──絶望するのはまだちょっと早いかもしれません」
増山がゆっくりと顔を上げた。
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