◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第149回

志鶴は東京高裁の法廷に立つ。星野沙羅の控訴審がいよいよ始まる。
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「審理を始めます」法壇で法衣姿の寺越が告げた。
星野沙羅の控訴審第一回公判期日。
東京高裁の法廷は、第一審と同様公開されている。傍聴席には一般の傍聴人の他、酒井夏希など星野沙羅の友人たちもいた。第一審では乳飲み子の孫を抱えた栗原学の母親もいたが、今日は彼女の姿は見えなかった。
二人の刑務官に付き添われて入廷した星野は紺のパンツスーツ姿だ。裁判長の寺越に呼ばれて証言台に立つと型通りの人定質問が行われ、ふたたび志鶴の並びに座った。緊張しているはずだが、志鶴の助言どおり、検察官側の席に座って彼女をにらみつける栗原未央には目を向けず、落ち着いて受け答えをしていた。
「弁護人、控訴理由について弁論しますか?」寺越が志鶴に言った。
「はい」志鶴は立ち上がった。「本件の控訴理由は刑事訴訟法379条の訴訟手続の法令違反及び382条の事実誤認です。第一審の裁判官は公判前整理手続において、判決に重大な影響を及ぼす弁護側請求証拠二点につき採用を却下しました。証拠能力のある証拠をそうでないとしたこの証拠調べ請求の却下は合理性を欠くため、刑事訴訟法379条に定められた訴訟手続の法令違反に相当します。また、第一審の判決は亡くなった栗原学氏の司法解剖鑑定書の記載内容を等閑視しているため、栗原氏の死因を急性硬膜下血腫ではなく出血性ショックとした事実誤認があります。以上です」
「検察官、意見は?」
十和田が立ち上がった。「控訴の理由はないと考えます」
「弁護人、証拠二点と被告人質問を請求しますか?」
「請求します」志鶴は答えた。
「検察官、意見は?」
「いずれも必要ないと考えます」
「被告人質問の請求は却下します」寺越が志鶴を見た。「LINEの解析報告書と被告人の元同僚の供述調書については証人尋問を行います」
よし──! 志鶴は星野と目を合わせた。栗原が十和田を見た。十和田が彼女に何事かを話した。栗原が顔を歪め志鶴と星野をにらんだ。第一審で裁判員の前では見せなかった表情だ。彼女自身も夫に裏切られていたが、何としても星野を許す気はないのだろう。
「証人尋問については次回公判期日に譲ることにします。弁護人、検察官──」
志鶴と十和田はそれぞれが手帳を手に法壇へ向かう。三者の相談で次回の期日が一週間後と決まった。
「──酒井さん、あなたがここに呼び出された理由が何かおわかりですか?」
星野沙羅の控訴審第二回公判期日。
証言台に向かって座る酒井夏希に、法壇の斜め前から志鶴は訊ねた。減刑を求める情状証人ではないので、星野との関係についての質問は最小限にして本題に入る。
「私が職場で見た事件のことだと思います」髪の毛は明るくカラーリングされているが、落ち着いたグレーのスーツ姿だ。
「あなたの職場とは、先ほどお聞きしたキャバクラ店のことですね?」
「はい」
「そこで事件を目撃された。そうですか?」
「はい」
「どんな事件だったか、まず簡単にご説明いただけますか?」
酒井はちらっと栗原未央に目を向けてから視線を正面に戻した。「亡くなった栗原学さんが、他のお客さんにつかみかかって『殺すぞ』と脅した事件です」
「噓──!」栗原が声をあげた。
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