◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第152回

一月八日。東京高裁で星野沙羅への判決がついに言い渡される──。
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気がつけば十二月も終わりが押し迫っていた。年末年始の休みを挟んで、星野沙羅の控訴審第三回公判期日は一月八日と決まった。増山の審理計画を策定する公判前整理手続も東京地裁で持たれる中、ばたばたと年を越した。母親が実家へ連れて行った妹の杏(あん)は、正月も帰ってこなかった。
「正月くらいは一緒にと言ったんだけど」父親が志鶴に言った。「受験勉強があるから駄目だってさ」
自分も寂しいに違いないはずだが、そのそぶりは見せなかった。
母親が杏と実家に帰ったのは志鶴の仕事が原因だ。増山の事件を受任してからマスコミが家に押しかけ、志鶴を個人攻撃する匿名の手紙も届くようになった。今は落ち着いていたが、実家の方が高校受験の勉強に集中するにはいい環境だと母親が判断したらしい。母親の久美子(くみこ)は志鶴が増山の弁護を引き受けたことも非難していた。二人の被害者は杏と同い年の少女で、久美子はマスコミの報道を鵜吞(うの)みにして増山を犯人視していた。志鶴が弁護人になったことが報じられ、杏が中学校でいじめられるということもあった。一時は登校拒否にさえ陥ったらしい。その後また学校へ行き出したと父親づてに聞いていた。年の離れた妹を志鶴は溺愛していたが、杏から直接なじられたこともあった。
年越しのタイミングで久々にLINEで「明けましておめでとう」というスタンプだけ送ってみた。
しばらくすると既読がついたが、杏からの返事はなかった。
一月八日午前九時。
志鶴は東京高裁の法廷にいた。刑務官二人に挟まれた星野沙羅も弁護側に座っている。正面には検察官の十和田と被害者参加人として参加した栗原未央がいた。満席の傍聴席には孫を抱いている栗原学の母親の他、報道関係者の姿も見えた。星野の親友である酒井夏希もいる。三人の裁判官が入ってくると一斉に立ち上がり、一礼して席に着く。
緊張をはらんだ沈黙が満ちた。
「判決を言い渡します」法壇で裁判長の寺越が判決書を手にした。「被告人は前に出てください」
「はい」星野が証言台の前に立って法壇を見上げた。
「主文──」
控訴審の判決は控訴棄却か原判決破棄のいずれかだ。無罪になるとすれば原判決破棄でなければならない。志鶴は息を詰め、胸の内で祈りの言葉を発していた。
「──原判決を破棄する」
傍聴席がどよめいた。星野が口を開く。栗原が「噓」と声をあげた。志鶴も信じられなかった。本当にそう言ったのか。「ええ──ッ」雄叫(おたけ)びのような声が傍聴席からあがった。栗原学の母親だ。抱かれていた子供がびっくりして泣き出した。
「静粛に──!」寺越が声を張った。「静かにできない人はただちに退廷してください」
「だっておかしいですよ裁判長──」栗原の母親が食い下がった。
「あなたに退廷を命じます」
母親は泣きじゃくる孫を抱いて立ち上がると、寺越をにらみつけて出て行った。法廷が静かになった。
「主文を最初から言い渡します」寺越が再開する。「主文、原判決を破棄する。被告人を懲役七年に処する──」