◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第152回

一月八日。東京高裁で星野沙羅への判決がついに言い渡される──。
「え──」星野が声を発する。
志鶴も耳を疑った。原判決が破棄された時点で当然無罪判決を期待していた。原判決の十六年という懲役が減刑されただけだったとは。傍聴席がざわつく。栗原が十和田を見た。十和田は寺越に集中している。寺越は上記刑に算入する未決勾留日数を告げたところで間を取った。志鶴は息を吞んだ。
「この判決が確定した日から五年間、上記刑の執行を猶予する──」
星野が眉をひそめる。傍聴席で酒井が「どういうこと……」とつぶやいた。執行猶予付き有罪。まさかの判決だった。星野が志鶴を見る。どんな顔をしていいかわからなかった。栗原が十和田に何か言った。十和田が手で黙らせた。寺越は星野を座らせ、判決書の理由部分の朗読を始めた。
「弁護人川村志鶴の控訴趣意は、原判示の殺人に関する、訴訟手続の法令違反及び事実誤認の主張であり、検察官の答弁は、原審の訴訟手続に法令違反はなく、原判決に事実誤認はないというものである。控訴趣意の第一点、訴訟手続の法令違反について。弁護人は原審が弁護人請求証拠二点を採用しなかったことにつき、証拠能力のある証拠を証拠能力がないとしたこの証拠調べ請求の却下は合理性を欠くため、刑事訴訟法379条に定められた訴訟手続の法令違反に相当すると主張する。この二点について当審では証拠採用し、いずれも証人尋問により事実の取調べを行った。まず被告人友人酒井夏希による証言──」
星野がため息をついて両手で頭を抱えた。
志鶴は腿(もも)の上で固く拳を握り締めた。なぜだ。なぜ勝てなかった。法壇を見上げ、判決文に全神経を集中する。
「──また、酒井証人は被告人と親友であることを自ら認めており、栗原学氏が意識を失った直後に被告人が最初に連絡、相談した相手であったことからもこの点に疑問はないと判断できる。酒井証人の証言には親友である被告人を窮地から救いたいという意図が介在している可能性は否定できないと言うべきである。職場であるキャバクラ店パラディーソにおいて栗原氏が起こしたという事件Bへの証言の真偽についてはこの点を鑑みて慎重に判断すべきであろうところ、仮にこの事件Bが真実起きたものであるなら栗原氏が他の客Xの胸ぐらをつかんで『殺すぞ』と恫喝するまで、パラディーソの男性従業員が制止に入らないのは不自然ではないかという疑問がまず生じるし、恫喝の被害を受けたとされるXが暴行・脅迫の被害を警察に訴え出なかったのかという疑問も生じる。よしんばこの証言にある事件Bが真実起きたものだったとして、酒井証言には親友である被告人を慮(おもんぱか)っての主観による偏頗(へんぱ)が介在している可能性は否定できないことは考慮すべきであろう──」
星野の親友である酒井の証言には信憑性(しんぴょうせい)に疑問が残るという判断だ。
「最後に、この事件Bについての酒井証言が真実であったとして、それをもってただちに栗原学氏が殺意を持って被告人の首を絞めたと推認できるかという点が畢竟(ひっきょう)の問題となる。すなわち事件Aの発生時に被告人が急迫不正の侵害を受けたと推認できるかどうかであるが、時間的にも空間的にも大きな径庭のある事件Bにおける栗原氏の行為をもってそれを推認することには合理的な疑いを生じさせる余地がある。しかるにこの酒井証言には被告人の正当防衛の要件を満たす証拠能力はないと判断せざるを得ない。したがってこの証拠を採用しなかった原審に手続の法令違反があったとする弁護人の所論は失当である──」