◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第167回

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第10章──審理 13
翌日から行われる検察側の証人尋問を前に、田口から志鶴にある提案が……。

「漂白」目次


 志鶴は立ち上がった。「反対尋問の必要はありません」

「五人の証人が取調べられてきたが、弁護人は一人も反対尋問していない。反対尋問しないなら、最初から書証の取調べを認めていれば、貴重な時間を割いてくださっている裁判員の皆さんに余計な負担をかけることもなかったのではないか?」

 獲得できるものがなければ反対尋問はするべきではない。鉄則だ。下手に行えばこちらにとって不利な証拠を裁判員に強く印象づけるだけの結果に終わる。能城は百も承知で言っている。言われっぱなしでも反論しても裁判員に与える弁護人の印象は悪化する。反論すべきだ。腹をくくったとき、「裁判長」とすぐ隣で声があがった。田口だ。立ち上がった。志鶴はびっくりして彼を見上げた。

「失礼ながら、反対尋問は義務ではなく権利です。必ず行わなければならないものではありません」いつもより表情が柔らかく、穏やかな口調だった。まるで血の通った人間に見える。「また、この前までに調べられた四点の書証について、公判前整理手続で弁護側は写真のご遺体部分を黒塗りした調書を合意書面として作成するよう検察官に申し入れましたが、断られました。であれば、見分調書や死体検案書がそのまま法廷に出されることに賛成することはできません。また、今の証人が作成した調書については関連性がないので、証拠採用されるのは適当でないとの弁護側意見を述べました。裁判長もご存じのはずです」

 正面を向いた能城は、田口の言葉など聞かなかったかのように「本日の審理を終了する」と告げた。

 裁判員と裁判官を見送ってから着席する。志鶴は田口を見た。志鶴の視線に気づくと「憎まれ役は引き受ける」と言った。すぐには吞み込めなかったが「助かります」と応えた。荷物をまとめ、増山が拘置所へ逆送されるまで接見する意思を伝えると「私も行こう」と意外な返答があった。足立南署で田口が初めて増山に接見したとき、裁判では最悪死刑の求刑もあり得るので事実を争わず、罪を軽くしてもらうよう働きかけるべきだと助言した記憶がフラッシュバックした。

「謝罪したい」田口が言った。

 接見室に入ってきた増山は、アクリル板のこちらに田口がいるのを見てけげんそうな顔になり、志鶴に目を向けた。

「増山さん」田口が口を開いた。「あなたに謝らせてください」

「え……?」

「以前私はあなたに、無罪を主張するのではなく罪を認めて減刑を求めるべきだと勧めた。あれは、間違いでした。申し訳ありません」

 田口は頭を下げた。増山は戸惑っているようだ。田口が頭を上げた。

「約束します。都築先生の代わりは務まらないかもしれない。だが私も、増山さんの無罪を勝ち獲るため、川村先生と共に最善を尽くします」

 増山は何度かまばたきをし、ぎこちなく頭を下げた。「……どうも」

 今日の審理の内容は想定内だったので心配する必要はないと増山に話し、明日の審理の内容について説明してから一緒に頑張りましょうと励まして退出させた。

 志鶴と田口は事務所に戻って打合せをした。明日と明後日(あさって)で検察側の五人の証人尋問が行われる。その一人の反対尋問をやらせてもらえないかと田口が申し出た。「想定問答は頭に入っている」。本来都築がやるはずだった尋問だ。なぜ田口は態度を一変させたのだろう。都築の急な入院が原因なのだろうか。見当もつかない。理由が知りたかったが、その代わりに「オーディションします。私が証人役で」と答えた。三十分後、志鶴は田口の提案を受け入れた。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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