◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第16回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第16回
第一章──自白 11
警察や検察と戦う方法を被疑者に伝える志鶴。ついに引き返せない一線を越えた。


「『被疑者ノート』です」

 増山がアクリル板ごしにノートに目を向ける。

 A4サイズ。表紙には「被疑者ノート 取調べの記録」というタイトルが印刷されている。記録を開始した、そして終了した日付や弁護士名を書き込むスペースもある。重要なのは、その下の、四角い線で囲ってある部分だ。 

警察・検察の方へ

 このノートは、弁護人が、接見の際に見ながら取調べ状況の説明を受けるとともに、後日返却を受け、弁護活動に役立てることを予定して、被疑者に差し入れ、記録を要請するものですので、その記録内容については、憲法に由来する秘密交通権の保障を受けます。 

 という文言が書かれている。

 表紙の一番下に「日本弁護士連合会」と表記されているように、七十ページあまりのこのノートを作成し、配布しているのは日弁連だ。留置場に差し入れられるよう、ステープラーを使わず製本してある。

「私がこのノートを増山さんに差し入れします。明日からは、取調べのときは必ずこのノートを取調室に持って行くようにしてください。そして、取調官がどんなことを言ったか、何をしたか、ノートに記入するようにしてください」

「……これが、なんで、盾になるわけ?」顔に、疑念が浮かんでいる。

 志鶴は微笑んだ。よくぞ訊いてくれたという気持ちである。

「被疑者を怒鳴りつけたり、脅したりする取調べは違法です。もちろん取調官もよくわかっています。でも、黙秘していると裁判で不利になるぞ、とか、罪が重くなるぞ、と脅すことは少なくありません。もし彼らがそういうことを言ったら、すぐノートにそう記録する。記録を取ることは、取調官の脅しに対する牽制(けんせい)になるんです」

 志鶴の言葉を聞いた増山は、かすかに口を開け、志鶴がアクリル板にくっつけている被疑者ノートにまた視線を向けた。

「ペンを差し入れることはできませんが、留置官に言えば貸してもらえます。私からもお願いしておきます。大変かもしれませんが、もしこれから最大二十三日間の勾留期間中、黙秘を貫くことができれば、相手はこれ以上増山さんから有利な証拠を取れないまま裁判を迎えることになる。そうなれば、有罪を立証するのは難しくなります」

 志鶴はそこで口をつぐんだ。星野沙羅の顔が浮かぶ。楽観的な見通しは厳禁だ。ゆっくりと息を吸う。そろそろ、これは志鶴にとって核心に触れる部分に言及しなくてはならない。口を開いた。

「増山さん──私を弁護人として選ばれますか?」

 増山淳彦が不思議そうな顔をした。

「私は、弁護士会が派遣する当番弁護士として今日、ここへ来ました。今後も弁護を続けるのであれば、弁護人として選任していただく必要があります。弁護費用もかかります。これについては、援助制度も利用できる可能性があります」

 死体遺棄罪は国選弁護の対象外なので利用できないが、他にも援助制度はある。

「増山さんに、もし他に弁護を依頼したい弁護士さんがいらっしゃるなら、私からその方に連絡します。そういう弁護士さんはいらっしゃいますか?」

 すると、彼は首を横に振った。

「──私を弁護人として選任されますか?」

 増山は視線をそらし、「できれば」とつぶやくように言った。

 志鶴が所属する弁護士会には、こうした場合の受任義務が定められている。当番弁護で派遣され、被疑者あるいは被告から選任されたら、断れない決まりだ。だが、そうでなかったとしても、弁護士になったときから、志鶴は、刑事事件では、どんな人物からの依頼であろうと、どんな事件であろうと、弁護を拒まないことをモットーとしてきた。

 ぎゅっと、胃袋がつかまれるような感覚。血の気を失った星野沙羅の顔。なぜまた──という疑問が浮かびそうになったが、迷いはない。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第15回
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