◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第177回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第177回
第10章──審理 23
この証人に容赦は無用だ──志鶴は検察側からの異議にも立ち向かう。

「私は記憶喚起のために提示しようとしているのではありません」志鶴は答えた。「検察官の異議申立てには理由がありません」

「199条の11第2項──」世良が応じる。「"前項の規定による尋問については、書面の内容が証人の供述に不当な影響を及ぼすことのないように注意しなければならない"。たとえ記憶喚起のためでなくても、供述録取書の提示には誘導の危険がある」

「刑訴規則199条の11で供述録取書を示すことが禁じられているのは、供述録取書の内容が真実であることを前提として、それを読んだ証人が現在の自分の記憶を間違っていると考えることを『証人の供述に不当な影響を及ぼす』と規定していると考えられる」志鶴は反論する。「しかし私がこれから調書を示すのは、記載内容の真実性を前提としていないのでこの規定で禁じられることはありません。証人がその真正さを認めた調書の中に自己矛盾供述があることを示し、証人の証言の信用性を弾劾することが目的です。この弾劾尋問は刑事訴訟法328条によって当然許されるものです。もう一度言います。検察官の異議申立てには理由がありません」

 芝垣は故意に偽証している。事実という基盤がないから岩切の誘導にほいほい乗って証言を変遷させたのだ。何としても裁判員にそれを示さなければならない。

 能城は左右の陪席と三分ほど話し合ってから志鶴を見た。

「検察官の異議を認める。証人に供述調書を見せることを禁じる」

「理由を教えてください」

「先ほど検察官が述べたとおり、刑事訴訟規則199条の11第1項にそれを禁じる明文規定が存在する。弁護人は自己矛盾供述を弾劾することが趣旨であると主張するが、その行為自体、証人の供述に不当な影響を及ぼすという側面がある」

「私は、過去に自己矛盾供述を行ったという事実を証人の記憶として喚起してもらうために供述調書を示そうとしているのではありません。過去において証人が自己矛盾供述をしていたという事実そのものを法廷に顕出する(現わし示す)目的で、供述調書を示そうとしているのです」

「とにかく調書を示すことは認められない」

「裁判長のその裁定に対し異議を申し立てます」

「検察官?」能城が世良を見た。

「弁護人の異議申立てには理由がありません」世良が答えた。

「弁護人の異議を棄却する。弁護人は質問の方法を変えるように」能城が告げた。

 志鶴は息を吸った。供述調書を用いて証人の証言を自己矛盾供述により弾劾する手法は刑事弁護の世界で確立されている。それを嫌って異議を唱える検察官は少なくない。裁判官の中にも、調書を証人に示すことを断固阻止しようとする者がいる。

「質問の方法を変えます。証人の警察官調書の記載を読み上げます──」

「弁護人」能城だ。「供述調書の読み上げを禁じる」

「どうしてですか」

 調書の文言をそのままの形で示すことができなければ、自己矛盾供述による弾劾の効果は大きく削(そ)がれる。引き下がるわけにはいかない。

「刑訴規則199条の3第4項──"誘導尋問をするについては、書面の朗読その他証人の供述に不当な影響を及ぼすおそれのある方法を避けるように注意しなければならない"」能城が答えた。

「裁判長が引用された刑訴規則199条の3第4項は主尋問に関する規定で、反対尋問について規定する規則199条の4には準用されません」志鶴は反論する。「くり返しますが、私がこれから供述調書を朗読する趣旨は、記載内容の真実性を前提としておりませんので、『不当な影響』を与えることにはなりません」

 右陪席が能城に声をかけ、左陪席も加わって合議した。能城が志鶴に「読み上げは許可する。続けなさい」と言った。表情は読めなかった。

(つづく)
連載第178回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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◎編集者コラム◎ 『△が降る街』村崎羯諦