◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第179回

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第10章──審理 25
矛盾した供述を示して証言の信用性を問う弁護側の狙いに対し、検察側は?

「弁護人は公判前整理手続においてその人物の尋問請求をすることができたにもかかわらず請求しなかった。やむを得ないと言える事由はない」

「目撃証人の信用性を弾劾する事実を前もって主張しなければならない理由はありません。そのようなことをすれば、反対尋問の効果はなくなってしまう。芝垣証人が事実に反して犬を散歩させる習慣について否定しなければ荒木証人を申請する理由もないのですから、公判前整理手続の終結までに荒木証人の尋問を請求する必要はありません」

「裁判官から証人にお訊ねします」能城は表情を一変させ芝垣に優しく語りかけた。「あなたは弁護人が言った管理人をご存じですか」

「──ええ」

「その人物に、証人ご自身の犬の散歩時間について、一日に一度、朝しか行かないという内容を語ったことがありますか」

「ああ、もしかしたらあのときかしら──」芝垣が答える。

「お心当たりがありますか」

「ええ。以前、うちのマンションの敷地内で、犬か猫のフンが見つかったことがございまして。私がオーランドを連れて散歩に出ようとしたら、管理人の方が呼び止め、犬のフンはちゃんと始末してください、って私を犯人扱いしてきたんです。フンが見つかったのはその日の朝でした。ですので、私はこれから散歩に行こうとしているところだし、昨日も朝一度散歩に行っただけです、落ちていたフンは私の犬のものではありません、とお答えしました」

「弁護人の話では、あなたは管理人に、朝に一度だけ犬の散歩に行くことはふだんからの習慣だと述べたということでしたが、実際にはそんな風に言ったわけではなかった、ということでしょうか」

「そのとおりです。私が申し上げたのは、フンが見つかった前日のことだけでした。ふだんからそうしているなんて言った覚えはございませんわ」

「もしその管理人が、弁護人が述べたような内容を語っていたとすると、どんな可能性が考えられますか」

「勘違いされたんでしょうね、きっと」

「なるほど、よくわかりました」能城はうなずいて志鶴を見た。「証人が犬の散歩の習慣について述べたという事実は目撃証言の信用性に影響を与えるものではない。くり返す。尋問請求は棄却する」

「裁判長のその裁定に異議を申し立てます」

 芝垣の話は志鶴が管理人本人から聞いた話とは異なる。管理人がマンションの敷地内でフンを見つけたのは事実だ。だが一度ではなくたびたび見つけている。注意しているが野良猫がうろついている様子はない。マンションはペットの飼育が認められており、犬を飼っている世帯も複数ある。どうせ管理人が掃除するだろうからと敷地内でさせたフンを始末しない住人がいるのかもしれない──管理人はそう疑っていた。

 ある日、朝の掃除の最中、犬の散歩をさせようと出てきた芝垣に管理人は、マンションの中にペットのフンの始末をしない人がいるかもしれない、という話をした。必ずしも芝垣を疑っていたわけではないが、それを聞いた芝垣は逆上し、「フンが見つかるのは朝でしょう? 私はこの子の散歩は一日に一度、朝しか行かないようにしてるの。こんな物騒なご時世だから、女が夜出歩くのは危ないじゃない。私はそんな馬鹿な真似(まね)はしません。買い物だって日が暮れないうちに行くようにしてるんですから」と言ったという。

 荒木という管理人は、マンションのエントランスの防犯カメラ映像をチェックして、芝垣の言葉が事実であることを確かめたと志鶴に語った。保存されているデータは一週間分ということで、残念ながら、浅見萌愛の遺体が発見された前日のデータはとっくに消されて存在しなかったが。

「検察官?」能城が世良に訊ねた。

「弁護人の異議には理由がありません」世良が答えた。

「弁護人の異議を棄却する。弁護人は質問を変えるように」

 志鶴は芝垣と向き直った。芝垣は勝ち誇ったような顔をしていた。

(つづく)
連載第180回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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