◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第180回

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第10章──審理 26
再反対尋問で志鶴の口から飛び出したのは、証人が暮らす住まいの隣人の名だった。

「漂白」目次


「質問を変えます。あなたはご自身が住むマンションの隣の部屋に住む、田巻(たまき)さんというご家族をご存じですか」

 芝垣の顔色がまた変わった。動揺を隠そうとするが、目は忙しく動いた。

「異議があります──」世良だ。「反対尋問の範囲外の尋問です。刑訴規則199条の4第1項で禁じられています」

「弁護人?」

「証人の証言の信用性を弾劾するための尋問です。規則199条の4第1項は『証人の供述の証明力を争うために必要な事項』は認めています。検察官の異議には理由がありません」

「──検察官の異議を棄却する。証人、答えていただけますか」

「はい」志鶴を見た。「存じております」

「田巻さんの家族構成は?」

「……ご夫婦と──娘さんがお一人、だったかしら」

「三十代のご夫婦と、一歳三ヵ月になる娘さんの三人家族。そのとおりです。三ヵ月ほど前に引っ越してきたばかり。あなたはその田巻さんの部屋の玄関ドアのポストに、手紙を入れたことがありますね?」

 芝垣の口が開いた。

「異議あります」青葉だ。「ただ今の弁護人の尋問は誤導尋問です」

「弁護人?」能城が志鶴を見た。

「誤導ではありません。証人に、証人が今年三月十五日、隣人である田巻家の玄関ドアのポストに投函した手紙を示します」

 検察側の異議も能城による制止もなかった。志鶴は弁護側席に戻り、田口が差し出した一枚のA4サイズのコピー紙を取った。

 証言台に近づくと芝垣の香水が香った。コピー紙を書画カメラの下に置く。目の前のタブレットで確認した芝垣が身をこわばらせた。コピー紙には黒いボールペンによると思しき、神経質さを感じさせる字で文章が縦書きに記されている。

「読み上げます──」志鶴は読み上げた。

 

 田巻様

 毎日毎日、朝となく晩となく、お宅の部屋から赤ちゃんの泣き声がかまびすしく聞こえます。いくら一歳児でもこんなにギャーギャー大きな声で泣き続けるものでしょうか? ひょっとして虐待でもあるのでは、と疑ってしまいます。一昨年から去年にかけて、当マンションの目と鼻の先でおぞましい事件が起こり、すぐ近くに住む者として、自分の町までが汚されたように感じております。そのうえこのマンションで虐待による殺人が起こるなど、想像するだに恐ろしい悪夢です。忠告します。どうか新聞沙汰になるようなことだけは避けてくださいませ。

 赤ちゃんの泣き声でノイローゼになりそうな隣人より

 

「──この手紙はあなたが書いたものですね」

「異議あります」世良だ。「反対尋問の範囲外です」

「弁護人?」

「証人の供述の証明力を争うために必要な尋問です」

「──検察官の異議を認める。弁護人は質問を変えるように」

 くそ。

「裁判長。証人が住むマンションの隣の部屋に住む、田巻正樹(まさき)さんを証人として尋問することを請求します」

 志鶴が芝垣の隣人である田巻夫妻を知ったのはマンションの管理人である荒木の紹介による。芝垣の身辺調査の過程で話を聞いた際、志鶴は彼に名刺を渡し、もし何か他に芝垣について思い出したことがあれば連絡するよう頼んだ。すると今年の四月に入ってから荒木から電話があった。どうやら芝垣が新しく移り住んできた隣人夫妻を幼児虐待の疑いで通報したようだ、という話だった。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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