◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第184回

第三回公判。法廷には検察側・弁護側それぞれの専門家証人の姿が──。
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五月二十七日。増山淳彦の第三回公判期日。
先日に続き、今日も抽選に外れたので傍聴席に増山の母・文子の姿はない。
傍聴席には被害者遺族とマスメディアのための席が確保されているが、今日はその他に最前列の二つの席に証人用と書かれたコピー紙をパウチ加工したものがあらかじめ貼られ、一般の傍聴人が座れないようになっていた。左右に離れたそれぞれに座ったのは、検察側の専門家証人と、弁護側の専門家証人だ。
二人に先立って尋問を受けた一人目の証人は、増山の取調べをし、供述調書を作成した灰原巡査長だった。主尋問に立った青葉が供述調書を示し、取調官に利き手を訊ねられた増山が左利きであると答えた部分を読み上げた。志鶴は反対尋問しなかった。
次の証人が傍聴席に座っていた検察側の専門家証人だった。能代に名前を呼ばれ、証言台に進んで宣誓し、着席した。この季節には厚手に見えるグレー地のスーツを着た白髪の痩せた男性だ。青葉に代わって主尋問を行うのは蟇目だった。
「先生のお名前を教えてください」
「江副圭司(えぞえけいし)です」
「現在どちらにご所属を?」
「一ツ橋医科大学法医学教室で教授職に就いております」決して大きくはないがよく通る高い声だった。
「法医学教室の教授というと、どのようなお仕事なんでしょう?」
「はい。一口に法医学と申しましてもその歴史は古代中国や古代ギリシャにまで遡ることができる一つの学問体系であると申し上げてもよろしいでしょう。短い言葉で説明するのはなかなか容易ではありませんが、偉大なる先賢の言葉を引いてみますならばまず、日本法医学の始祖である片山国嘉(かたやまくによし)はこのように定義しました──"法医学とは、医学および自然科学を基礎として法律上の問題を研究し、又之(またこれ)を鑑定するの学である"と。日本法医学界草分けの一人である古畑種基(ふるはたたねもと)は"法医学とは法律上の問題となる医学的事項を考究し、これに解決を与える医学である"と定義しています。法律を運用するに当たって医学的な事象が問題となる場合があります。そのような場合に、その事象を研究し、あるいは応用することによって医学的に公正な判断を下す──そういう学問であると定義してよいでしょう」
「なるほど。で、先生は具体的にはどんなことを?」
「法医学はさらに基礎法医学と応用法医学とに分類することができます。基礎法医学というのは文字どおり法医学の基礎・原理となるような事柄を研究するものですね。皆さんにも馴染(なじ)みがあるものですと血液型学などがございますが、他にも法医病理学など幅広い範囲に及ぶものです。一方、応用法医学はそれよりも実践的と申しますか、先ほど申しました法律上の問題に実際にコミットメントしていくものであります。私は主にこちらの分野の研究、教育、そして社会活動を行っております。具体的には、自身の研究成果を論文として発表したり、医学生に法医学の講義をしたり、検察官や警察官の嘱託を受けご遺体の解剖をして死因や怪我(けが)の状態、薬毒物の影響等を検査してその結論を鑑定書にまとめる鑑定業務を行ったりしています」
「今日こちらにお越しいただいたのは、亡くなった浅見萌愛さんのご遺体の司法解剖の鑑定結果から推測できる犯人の特徴について、医学的見地から先生のご意見をうかがうためです」
「はい、承知しております」
次いで蟇目は江副に自身の学歴、資格、職歴を証言させた。
「これまでにどれくらい死体解剖を経験されましたか?」
「自ら執刀した解剖は二千五百体くらいになりますか」
「裁判所で法医学の専門家として証言された回数はどれくらいでしょう?」
「六十回くらいです」
「今回証言されるに当たり、どのような資料をご覧になりましたか」
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