◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第185回

犯人は左利きと推測した法医学の専門家に、田口は反対尋問を始める。
「弁護人の田口からうかがいます。先生はこれまでに、法医学の専門家として法廷で証言されたことが六十回ほどおありだというお話でしたね?」
「はい」
「その六十回の中で、弁護側の依頼を受けて証人になったことは何回ありますか」
「ありません」
「六十回すべてが検察側の依頼を受けてのものだったということでしょうか」
「さようです」
「今回の件について、弁護人の方から先生にお会いしてお話をうかがいたいとお願いしたことがありましたね?」
「ございました」
「それに対する先生のお返事はどうだったか教えてください」
「お断りしました」
「先生はその理由について、弁護人と会うことはしない、とおっしゃいましたね?」
「はい」
江副は警察や検察の御用学者だ。法廷では検察官の意向に沿った証言をする。そのために医学的事実を曲解することもいとわない。だからこうして何度も召喚されるのだ。裁判員にそう示したかった。志鶴と都築が公判に先立って面接を申し込んだのは事実だ。敵性証人であってもそうすることで何かが得られることはある。だが江副の場合、あえて断られた事実を残すために連絡した。
田口は弁護側席に近づいてくると、デスクの上から一冊の本を手に取って証言台に歩み寄った。
「八田武志(はったたけし)著『左対右 きき手大研究』六十五頁を示します」
「検察官?」能城が訊ねた。
蟇目が立ち上がり、証言台に近づいて本を確認すると、ぼりぼり頰をかいた。「えー、異議はありません」
「先生は、化学同人という出版社をご存じですね?」田口が続ける。
「存じております」
「文字どおり、化学──バケガク、ケミストリーの方の『かがく』──についての書籍を中心に、サイエンスという意味の科学についての本も幅広く出版している出版社です。先生のような専門家が、専門家やそれを研究する学生や院生のために書いている専門的な書物も数多くあります。専門家として信頼できる出版社であると言える。そうですね?」
「ええ、さようです」
「この『左対右 きき手大研究』もその化学同人が出版した本です。著者の八田武志という人物は心理学の専門家で、名古屋大学の名誉教授であり、関西福祉科学大学の学長も務められている方です。六十五頁を読み上げますので、ご覧になっておいてください。"とりあえず、自分の研究結果から述べることを許していただきたい。左ききの割合は「H.N.きき手テスト」(第4章参照)を用いて、一九七三年と一九九三年に大学生を対象に調べた資料がある。一九七三年の調査での左ききの割合は、男子は六・二パーセント、女子は四・二パーセントで、全体としては四・八パーセントであった"。書いてあるとおりに読みましたね?」
「ええ」
「先生は、日本の人口をご存じでしょうか」
「さあ、詳しくは」首を傾げた。
「総務省統計局のサイトに記載されている、令和△年十月一日時点の人口統計の結果の概要PDFファイルをプリントしたものを示します」
「検察官?」能城が蟇目を見た。
席に戻っていた蟇目が立ち上がり、急ぐ様子もなく証言台に近づき、田口が弁護側席から持ってきたプリントを確かめた。
「異議はないですね、裁判長」蟇目が言った。
「ちょっと待ちなさい」能城だ。「弁護人、そのプリントを示す目的は?」
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