◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第186回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第186回
第10章──審理 32
田口は志鶴と反対尋問のリハーサルをしていた。本番でもうまくいくのか。

「漂白」目次


「髙取健彦(たかとりたけひこ)監修『NEWエッセンシャル法医学(第5版)』百七十頁を示します」付箋をつけていたページを開いて書画カメラの下に置いた。

 蟇目が立ち上がって近づき、本を確認した。異議はなかった。

「先生はこの本をご存じですね?」

「はい」江副がうなずく。

「代表的な法医学の教科書の一つ、そうですね?」

「ええ」

「法医学を専門にする医師であれば誰でも知っている。そうですね?」

「そうだと思います」

「先ほど先生が引用された、片山国嘉と古畑種基による法医学の定義の文言も、そっくりこの本の第一章の法医学の定義の項目に書かれていますね?」

「ええ」

「百七十頁を読みますので、見ていてください。扼死の外部所見の扼痕についてこう書かれています──"これらは、圧迫しなおすことなどにより複雑になり、形状・大きさが不定ともなる"。今私は書いてあるとおりに読みましたね?」

「はい」動じる様子はなかった。

「浅見さんの前頸部についていた爪痕の位置は正確ではなかった。違いますでしょうか」

「いえ、正確であったと思います」

「前頸部の皮膚は、漂白剤の影響で化学熱傷──やけどのような状態になって赤く腫れているように見えました。それでもですか」

「前頸部に関しては、ご遺体がうつ伏せにされ漂白剤が流れ落ちたためか、赤くはなっておりましたが体の他の部分と比べてほとんど腫れはありませんでした。また、漂白剤による影響がさらに少ない皮下の出血の位置ともぴたりと一致していました。正確であると言っていいと考えられます」

「ですが、爪痕だけで左右すべての指が特定できるものでしょうか」

「可能です。先ほども説明しましたとおり、扼頸時に首を圧迫したときの爪痕の基本型のデータがあり、浅見さんの首の爪痕もそのパターンと合致しました」

「しかし、爪痕というのは、ずれてきちんと判別できていない可能性がある。そうじゃないですか」

「いえ、ずれてはおりません。きちんと判別できます」

 ここからだ。志鶴が江副役となってリハーサルはした。が、本番でもうまくいくだろうか。

「先生はあくまで、爪痕は正確に犯人の手の形状を反映していると、そうおっしゃるわけですか」

「はい、そうです」

「先生はつい先ほど、扼頸時に首を圧迫したときの爪痕の基本型のデータがある、とおっしゃいました。でも不思議なんですが、犯人によっては浅くつかんだり深くつかんだりして、それによって形が変わってしまうということはないんでしょうか」

「それはまずないと考えられます」

 江副への反対尋問で最も危険な箇所に差し掛かった。誘導尋問によるコントロールを手放し、それはなぜか、と理由を訊ねるオープンクエスチョンを投げるリスクを冒さなくてはならない局面だ。

 問いを発する前に田口はうなずいて「なるほど」と言った。すると江副が彼を見上げて口を開いた。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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