◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第186回

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第10章──審理 32
田口は志鶴と反対尋問のリハーサルをしていた。本番でもうまくいくのか。

「講義でも学生たちによく言うんですが、凶器を用いずに人間を死に至らしめるのは大変な仕事なんです。扼殺によって窒息死を惹起するには非常に大きな力が必要となります。気道を狭窄して窒息死に至らしめるには、ぴったりと手を首に密着させなければなりません。そのために犯人は可能な限りしっかり深く握ろうとします。したがって、そうしてできた爪痕の形は決まったパターンでできたものだと考え得るということです」

 こちらの狙いどおりの回答だ。が、志鶴は困惑もしていた。弁護側は公判前整理手続で弁護側証人による鑑定書を検察官に渡した。こちらがどのような証人と方法論でこのあと江副の証言を弾劾しようとしているか彼らは知っているはず。にもかかわらず、それに対する防御策を講じている気配がない。何かの罠だろうか。

「ありがとうございます。裁判長、尋問を終わります」田口が弁護側席へ戻ってきた。

「検察官、再主尋問を」能城が促した。

「はい」蟇目は立ち上がったが、すぐには動かなかった。

 検察側席で青葉が紙の上でペンを走らせているのを、世良がチェックしていた。青葉が書き終えた。世良がうなずいた。青葉が蟇目にたった今書き上げてリーガルパッドから剝がした黄色い紙を手渡した。蟇目がそれを持って法壇の前に進んだ。ちらっと紙を見た。

「えー、先生、犯人は左利きと推測されるという事実は、どんな可能性を示すものでしょう?」

「そうですね」江副は増山に目を向けた。「あちらの被告人は左利きであるとうかがっております。被告人が犯人である可能性はあると申し上げてよいと思います」

 蟇目はうなずいてまた紙を見た。

「先ほどの反対尋問で弁護人から、浅見さんの首にあった爪痕がずれた可能性はないかという質問がありました。先生はずれていないとお答えになった。その理由を教えてもらえませんか」

「はい。先ほど弁護人が『NEWエッセンシャル法医学』から引用したまさにその文章にありましたとおり、爪痕がずれるのは首を圧迫し直した場合です。首をつかんでいた手をつかみ替えたと言い換えればよりわかりやすいでしょうか。そうした場合には当然、爪痕の位置もずれるし、不明瞭になることが多い。ところが浅見さんを殺害した犯人は、首を圧迫し直していない。爪痕の明瞭さからそのことが推測できるのです。浅見さんの首についていた爪痕は明瞭なものが十個だけ。皮下等の出血箇所もそれに対応するものだけです。ですから爪痕がずれたという事実はなかったと考えられます」

 蟇目はまたうなずき、紙を確認した。「尋問を終わります」

 蟇目が今引き出した証言は、検察側よりむしろこちらにとって有利なものだった。自分は何か見過ごしているのだろうか。

「弁護人、再反対尋問は?」能城が訊ねた。

「どうする?」田口が小声で訊ねる。

「……必要ないと思います」不安もあったが当初の予定どおりに進めることにする。

「必要ありません」田口が能城に答えた。

 裁判官からの補充尋問はなかった。能城が裁判員に補充尋問を募ったが誰も手を挙げなかった。

「休廷します」能城が告げ、腕時計を見た。「次の開廷は、十二時四十五分とします」

(つづく)
連載第187回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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