◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第188回

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第10章──審理 34
「検察官の片棒を担ぐ法医学者を許せない」南郷は志鶴にそう語っていた。

「漂白」目次


 当初、志鶴と都築が江副を弾劾するために専門家証人を召喚しようと思わなかった理由は二つある。江副の証言を完全に弾劾できずとも他の証拠を潰すことで検察側の立証の弱さを示すことができるだろうと判断したのが一つ。もう一つは、すでにその時点で二人の専門家証人に鑑定の依頼を出しており、その費用だけでもばかにならない金額になっていたからだ。

 裁判所による鑑定を請求すれば自腹を切る必要はないが、鑑定結果も鑑定証人も弁護側でコントロールすることはできない。当事者鑑定ではどちらもコントロールが可能だが少なからぬ弁護費用の他さらに出費が生じる。負担する増山の母・文子は年金生活者で、老後のための蓄えを切り崩していた。

 公判前整理手続の手伝いをしてくれた三浦俊也が、この人なら江副を弾劾できるのではないかとウェブ上の英語記事を見せてくれた。イギリスのメディアによる取材で、写真から3Dモデルを作成するフォトグラメトリーという最新技術を法医学に応用している先駆者として、鵬修院大学法医学センターの南郷にインタビューしている内容だった。

 志鶴と都築がもっとアナログな手段を使って弾劾しようと考えていた爪痕について、このユニークな経歴と経験を持つ人物ならはるかに強力な手法で実現してくれるかもしれない──志鶴と都築の意見は一致した。文子の意向を確認すると「ぜひお願いします。必要ならこの家だって売ります。破産して野垂れ死んでも、淳彦が無実のまま罪に問われるよりずっとましです」と答え、南郷に依頼することが決まった。

 検察側の予定主張に目を通すと南郷はこう言った。

「日本国内の法医学者はたかだか百五十人。狭い社会です。その法医学者同士が検察官と弁護人の駒となってやり合うのはじつに不毛だ。だが、検察官の言いなりに彼らに都合のよい証言をする法医学者が存在する限り、日本の刑事司法に正義は実現されない。こんな貧弱な、いや誤った根拠で有罪主張する検察官の片棒を担ぐ法医学者を私は許せない。お引き受けしましょう」

 法医学者のような専門家が検察に迎合した鑑定結果を出すことで生まれた冤罪は少なくない。江副が「先賢」として名を挙げた古畑種基は日本の法医学の泰斗だが、刑事弁護士にはむしろ御用鑑定の代名詞として悪名高い。死刑が確定したが再審で逆転無罪となった戦後のいわゆる四大冤罪事件のうち、古畑はじつに三件──財田川(さいたがわ)事件、松山(まつやま)事件、島田(しまだ)事件──で有罪を後押しする鑑定を行っている。死刑ではなく懲役十五年が確定していたがやはり再審で逆転無罪となった弘前(ひろさき)事件で鑑定を行ったのも古畑だ。

 問題のある鑑定を行った専門家は古畑一人に留(とど)まらない。一審で無罪が確定した下高井戸(しもたかいど)放火事件では弁護側が専門家に依頼して燃焼実験を行い、検察側鑑定の信用性を弾劾した。再審で逆転無罪となった足利(あしかが)事件では一審で有罪の決め手の一つとなったDNA鑑定が誤りだったことが後に判明した。冤罪が疑われるある事件の公判で、被害者の遺体を解剖してから鑑定書を書くまでに約半年もかけた法医学者が、弁護人から半年も何をしていたのかと訊かれ、捜査資料との整合性をチェックしながら作っていたと驚くべき証言をしたという話もある。

 いずれも検察官が主導したことがそもそもの原因だろうが、彼らに迎合し、事実やその解釈を枉(ま)げても検察側のストーリーを補強する鑑定書を作ったり法廷で証言する御用学者も冤罪を作り出す戦犯と言っていい。

 南郷には江副の証言を弾劾しようという強い意気込みがあった。が、実験と検証には科学者としてあくまで厳正な態度を貫いた。

「まず、実験と検証から先生が導き出した結論を教えてください」

「はい。浅見萌愛さんを扼殺した犯人は、増山淳彦さんとは別の人物である可能性が非常に高い」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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