◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第198回

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第10章──審理 44
第五回公判が開廷した直後、志鶴は裁判長の能城にある要請をする。

「裁判員の皆さんに説明します」能城が口を開いた。「本日の証人尋問の焦点は、本件のDNA鑑定に関わる三人に対して行われるものです。この尋問は本件で最も重要な争点の一つ。多くの人にとってDNA鑑定というのはごく専門的な分野の話で馴染みがないと思われます。いきなり証人尋問を開始しても、そこで問われていること、争点となっていることの理解がしづらいことが想定されます。そこで裁判官、検察官、弁護人の三者で協議した結果、証人尋問の開始に先立って、証人の一人にDNA鑑定について基本的な内容を解説してもらう時間を設けました。方法としては講義形式で行います」

 能城は解説を行う一人目の証人を呼んだ。

 検察側の傍聴席から立ち上がって証言台に進んだのは黒いスーツ姿の男性だった。髪の毛をべったりとなでつけ、黒縁の眼鏡の下でぎょろっと目を剝いている。額と眉間とむっつりへの字型に結んだ口の両端に皺が刻まれていた。能城は人定質問を行い、宣誓させた。青葉が証人台の前に進むと、改めて証人の名前を訊ねた。

「剱持陣馬(けんもちじんま)です」低いが太く張りのある声だった。

「現在の所属は?」

「警視庁科学捜査研究所の第一法医科長を務めています。また、一ツ橋医科大学法医学教室にも教授職として籍を置いています」

 科捜研に勤務しつつ大学の法医学研究室などに在籍し、研究者としての実績を積んでいくというキャリアパスは存在する。が、教授職にまで至る者は少数だろう。青葉は剱持のDNA鑑定に関する豊富な経験の他、ユニークな経歴も裁判員に印象づけた。

「──では、DNA鑑定の基礎知識について解説をお願いします」青葉が席に戻った。

「わかりました」剱持が席を立ち、裁判員の前に進んだ。ノートパソコンのリモコンを手に持っている。「まず一つお断りを。裁判員の皆さんが立派な社会人であることは百も承知ですが、ここから先の説明は、ふだん私が大学で学生相手に講義するときと同じように、丁寧語を使わない、いわゆるタメ口でさせてもらうことをお許しください。それが一番わかりやすく無駄がないからです。断言します。丁寧語で説明していたら皆さん絶対眠くなる」裁判員の何人かが微笑んだ。「失礼だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どうかご容赦を。よろしくお願いします」

 剱持はきっちり一礼した。裁判員の何人かがお辞儀を返した。剱持がさっと顔を上げた。

「まず大前提。DNAとは何か、ということから説明する。そういう話は苦手だなあ、と思った人、安心しろ。DNA鑑定を理解するために特化した必要最小限の知識を、これから世界で一番わかりやすく説明してやる」一瞬で人格が切り替わったかのようだ。

 リモコンを操作してプレゼンテーションソフトのスライドをディスプレイに表示させた。使用するスライド資料は公判前整理手続で剱持と弁護側証人とで協議のうえ作成した合意書面だ。同じ内容のプリントを裁判官と裁判員に配布している。

「この地球上のすべての生物をものすごくざっくり二つに分けると、真核生物と原核生物という二種類に分類できる。原核生物はここでは関係ない。大事なのは真核生物。真核生物って何だろう? 簡単だ。細胞に『核』という器官がある生物のこと。ヒト──われわれ人間もこの真核生物だ。『細胞』ってのはイメージできるよな? われわれ人間の体はものすごくたくさんの小さな細胞が寄り集まって出来上がっている。真核生物のすべての細胞の核の中にはDNAが存在する──さあ出たDNA。今日ここで話題にするDNAは、核の中にあるこのDNAのこと。ここまでOK?」

 剱持は裁判員を見回した。何人かがうなずいた。

(つづく)
連載第199回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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