◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第2回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第2回
序章──予震 02
法廷内の視線を一身に浴びて弁護人・川村志鶴の最終弁論がはじまる!

 ──呑(の)まれるな。

 胸の中で、ひるみそうな自分を叱咤(しった)し、もはやこの世にはいない相手に声をかける。

 ──やるよ。見てて、尊(たける)。

 志鶴のスーツの上着のポケットにはお守り代わりのシリコン製のリストバンドが入っている。いつもならそれに触れるところだがあいにく今は素手ではない。

 最終弁論に備え、志鶴はついさっき、あらかじめ用意してあったドライビンググローブを机の下で、周囲から見えないよう両手に装着していた。

 リストバンドに触れる代わりにその両手をぐっと握り締めて自分に気合いを入れると、席を立った。

 両手をネイビーのスーツの背中に回して法廷の中央へ向かう。

 法廷の奥を向いて立ち止まり、書記官席越しに正面の法壇を見上げる。

 中央に黒い法服を着た裁判官が三人、その左右にそれぞれ三人の裁判員。志鶴は彼らに少し近づくと、いきなり、背中に隠していた両手を勢いよく上げた。顔の両側で手の平を裁判官たちに向けて思いきり広げ、くわっと目を見開く。肝試しの脅かし役が参加者をびっくりさせる要領だ。

 裁判員の中に、はっとした様子でわずかに口を開けたり、のけぞったりする反応があった。背後の傍聴席にも軽いざわめき。狙いどおりだ。

 検察官は三人。主導権を握るのは、最年長で押しの強い世良(せら)という検察官だ。世良が口を開けたのを視界の左端で捉える。異議か。来るなら来い。志鶴の両手の、木綿製でポリ塩化ビニルのドットの滑り止めがついたベージュのドライビンググローブは、死亡時に栗原学が身につけていた証拠物そのものではないが同製品で、公判期日前に視覚資料(ビジュアルエイド)として提示する許可を裁判官から得てある。当然検察側も同意済みだ──こうした使われ方は想定していなかったろうが。

 互いに見交わし合った三人の検察官たちがタイミングを逸して言葉を呑み込むのを見るというより感じ取ってから、志鶴は芝居がかった表情を消し、両手は下げたが胸の高さに保持した。事実認定者たちに引き続きグローブの存在感、むしろ違和感を印象づける。

「亡くなった栗原学氏は、なぜ沙羅さんのマンションの部屋に入ってからも、両手に、指先までを覆うドライビンググローブを嵌(は)めていたのでしょう? その前に沙羅さんのスマホに送ったチャットのメッセージの記録には、『わかった。別れる。でも最後にちゃんと謝らせて。今から行く』とあったのを皆さんもご記憶のはずです。栗原氏が倒れていたリビングは、玄関から廊下を通ってドアを抜けたところ。栗原氏は、玄関ではきちんとスニーカーの靴紐(くつひも)をほどいて部屋に上がっています。すぐ車に戻るならともかく、これから訪問先の相手にきちんと謝罪するつもりでいる人が、廊下を通ってリビングに入っても手袋を外さなかったというのは、自然な行動と言えるでしょうか?」

 志鶴は、事実認定者たちの目と意識にドライビンググローブを焼き付けたのを確信して告げる。

「弁護人はこれから、三つの証拠によって、星野さんの無実を立証します」

 弁護士席に戻るとグローブを外し、代わりに、用意してあった書面を取った。裁判長に提示許可を求めてから、証言台の上に設置された書画カメラのタブレットに乗せる。

 法廷ITシステム。A4サイズの紙にカラー印刷された画像が、裁判官、検察官、被告も座る弁護士席といった当事者席と裁判員席のモニター、そして傍聴席近くの壁の左右両側にかかった大型モニターにも映し出される。大型モニターをチェックしながら、志鶴は書画カメラのズームレバーを調整して画像を拡大した。

次記事
前記事
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。