◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第20回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第20回
第一章──自白 15
「言ってませんでしたか……あの子は?」増山淳彦には志鶴に隠していた過去が──。

「漂白」目次


 文子は志鶴の言葉に何度もうなずいた。質問があるか訊ねると、彼女は、差し入れのことなど、拘束されている息子が置かれている状況についていくつかの問いを投げてきたので返答する。弁護費用についても質問があり、志鶴はバッグから事務所の料金表を取り出して渡し、被疑者弁護援助制度についても補足した。一定の要件を満たせば、日弁連から弁護費用の援助を受けられるのだ。

「ありがたいです」と彼女は言った。「亡くなった夫と自分の年金で細々とやっておりますので」

「もし何かお困りのことがあれば、ご相談ください。マスコミも当分の間、お母様を追いかけるでしょうし、ご近所や、知らない人から嫌がらせを受けるおそれもあります。あまりひどい場合には、法的な対策を講じることも考えますので」

 雨戸が閉ざされた窓にはカーテンがかかっている。文子はそこに不安そうな目を向けた。すぐ向こうに取材陣の気配があった。

「──まさか本当にあんなに大勢の人が来るなんて」

 彼女は、自分の息子が逮捕されたことさえ事実だと思わなかったのだ。家にマスコミが押し寄せることも現実とは思えなかったのだろう。だから、足立南署で接見を断られたあと、ここへ帰ってきたのだ。

「……私、きょうだいもいなくて、親戚付き合いもあまりしてないんです。親しいお友達には帰ってすぐ電話したんですけど、関わり合いになりたくないみたいで……電話をかけてくるのは興味本位な人ばかり……世間ってこんなに冷たいものなんですね。テレビも事件のことばかりで、この家も映ってて、怖くて消してしまいました」

 悲しみが目に浮かんでいる。

「……それで電話の電源も切られてたんですね」

「あ、電話いただいてたんですか。ごめんなさい……」

「いえ。でも、携帯で連絡を取れるようにしていただけると助かります」

 彼女が持っていたのは二つ折りの携帯電話だった。電源を入れる。志鶴が迷惑電話を着信拒否する方法を教えると、彼女は二つの番号を着信拒否にした。携帯のメールアドレスも教えてもらう。

「あまり迷惑電話がひどい場合は、携帯の番号を変えることも考えましょう」志鶴は提案した。「それと、外出する際、取材陣に何を訊かれても、一切無視してください。何も答える必要はありません」

 すると、文子がうなだれて、肩を震わせた。

「……情けないです。七十年も生きてきて、こんなとき、どうしていいかわからず、助けてくれる人もいなくて」

 それであの永江という弁護士を家に入れたのだろう。志鶴に対してキャリアを誇ってみせた彼の目的が何だったのかは知らないが、弁護士一年目の自分にも、永江がこれまで刑事弁護に真剣に取り組んできていないことは想像がつく。

「増山さん。淳彦さんも、お母様も、一人にはしません。私が一緒に闘います」

 文子が顔を上げた。

「ありがとうございます」目が潤んでいるようだった。

 孤独な被疑者が闘うために、家族の支援は欠かせない。その家族を支えるのも刑事弁護士の仕事の一環であると志鶴は考えている。互いに信頼し合えるのが理想だ。そのために確認しなければならないことがある。

「増山さん。淳彦さんがなぜ警察に連れて行かれたのか、思い当たることはありますか?」

 文子がはっとしたような顔になる。

「言ってませんでしたか……あの子は?」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

そのとき「最善の選択」をするために『医療現場の行動経済学 すれ違う医者と患者』
今月のイチオシ本【歴史・時代小説】