◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第206回

遠藤のプライドに揺さぶりをかける志鶴。弁護側は追撃の一手を用意していた。
「あなたは先ほど、漂白剤から次亜塩素酸ナトリウムが検出された、とおっしゃった。次亜塩素酸ナトリウムは消毒や殺菌などにも用いられる、われわれにとって比較的身近な化学物質です。しかし、鑑定作業においては一筋縄ではいかない存在としても専門家には知られている。時間経過した液体試料や液体をかけられ変色・脱色した乾燥試料からは検出されない場合もある。もっと決定的な点は、質量分析計にかけると熱分解されてしまい、検出できないということ。もし生物学科出身で化学科の研究員ではないあなたに答えられるなら、答えてください。そうした性質を持つ次亜塩素酸ナトリウムを、一体どうやって検出したのか」
「先生も文系にしてはよく調べてるじゃないですか」遠藤が挑発的な笑みを浮かべた。「たしかに、そのままの状態では次亜塩素酸ナトリウムは検出が難しい。今回鑑定に用いた方法は、不安定な次亜塩素酸ナトリウムにp‐スチレンスルホン酸ナトリウムを誘導体化剤として加え、安定的なクロロヒドリンという物質に誘導体化したうえで液体クロマトグラフで分析するというものです。この方法を用いれば、次亜塩素酸ナトリウムを検出することが可能なんですよ。証拠開示された鑑定書、読んでも理解できませんでした?」
「少なくともあなたも鑑定書に目を通すことはしていた、と」志鶴の粘着質な当てこすりに、遠藤の表情が尖った。おかまいなしに続ける。「ところで、あなたが今言った方法で次亜塩素酸ナトリウムの検出に成功する可能性は何パーセントくらいでしょう?」
「可能性も何も、今回一度で実際に検出できたんですよ」あきれたように口を開いた。感情的になっている。
志鶴は眉を上げ、しばらく間を取った。遠藤が怒気をはらんだ目を向けてくる。
「ではあなたの申告どおり、仮に次亜塩素酸ナトリウムが本当に検出されたとしましょう。鑑定によりもう一つ、水酸化ナトリウムという成分も検出されたということです。この二つの成分が検出されたという情報だけで、液体が塩素系漂白剤であると推測できる根拠は何でしょう?」
「先生もよほど疑り深い。ご専門外でしょうから説明しますと、質量分析装置は各成分をイオン化──ざっくり説明すると、それぞれの物質ごとに質量を同じ条件で比較できる状態にしたうえで、その成分をコンピューターで解析する装置です。その解析はさまざまな物質のデータが蓄積されたデータベースを参照して行う。二種類以上の元素が結びついた化合物に関しても膨大なデータベースがあり、今回はその中でも法医学に関する『法薬毒物』というデータベースなどを用いてコンピューター解析をしたうえで塩素系漂白剤という解析結果を得ました。信頼性は非常に高いと言えます」
志鶴はまだ信じられないというように首を傾(かし)げてみせた。
「あなたの申告どおり、データベースから塩素系漂白剤だったという解析結果が導かれたと仮にそうしてみます。その場合、次亜塩素酸ナトリウムと水酸化ナトリウム以外の物質が混入していた可能性についてはどうでしょう?」
「検出されていないんです。混入しているわけが──」遠藤はそこでいくらか冷静さを取り戻した。「質量分析装置の検出感度──どれだけ少ない量から検出できるか──は非常に高いです。あるメーカーではそのたとえとして、地球総人口の中から一人を見つけ出すことより、はるかに感度が高いと表現しています。もしその二つ以外の成分が混入していたとしたら、検出されていないはずがないと断言できます」
「断言、というのは強い言葉ですね。生物学科出身で化学科の研究員ではないのに、そこまで強く言い切れるものなんですか」