◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第209回

検察側の剱持と弁護側の園山、二人の専門家証人への「対質尋問」が始まる。
「先ほどの遠藤証人への尋問で、塩素系漂白剤の成分である次亜塩素酸ナトリウムはDNAを破壊する、という証言がありました。次亜塩素酸は、法医学など検査や実験を行う現場ではどのような位置づけのものでしょうか」
「次亜塩素酸ナトリウムは生化学の世界ではとてもなじみ深い試薬の一つで、検査室には何本もの容器が常備されています」
「なぜ常備されているのでしょう?」
「主な用途は二つ。殺菌作用を活(い)かした微生物などの殺菌と、もう一つは遠藤が証言したDNAを破壊する酸化作用を活かした、DNA型検査に使用する機器の洗浄です。DNA型鑑定をより正確に行うため、不要なDNAによる汚染を防ぐために機器を洗浄するのに次亜塩素酸が用いられている、ということですね」
「なるほど。では、遠藤証人による精液の鑑定結果について剱持証人にお訊ねします。まず結論からうかがいます。この鑑定結果についての評価をお聞かせください」
「端的に言って、この鑑定結果のデータの科学的信用性は非常に低いですね」
「それはどういう意味でしょう?」
「遠藤も証言していましたが、試料である精液DNAが漂白剤の次亜塩素酸ナトリウムによって破壊され、正しく鑑定できなかったということが考えられます。そのような試料のことを専門用語で劣化試料と呼びますが、われわれ専門家は基本的に、劣化試料からの鑑定結果を証拠とするのは適正ではないと考えています。こんな鑑定結果をわざわざ証拠請求した弁護士さんがどういう神経をしているのか疑うレベルです」あざけるような笑みを浮かべた。
「終わります」
ここで裁判所事務官によって、ふだんは司法修習生のために用意されている一組のデスクと椅子が証言台と弁護側席との間に並んで設置され、机上にはマイクがセットされた。
「これより対質尋問を始めます」能城が告げた。
園山が傍聴席を立って、設置された椅子に座った。対質尋問は、相反する二人の証人に対し、弁護人、検察官の順に行う。志鶴は立ち上がった。
「精液のDNA型の争点として、漂白剤に汚染された劣化試料である、というのが剱持証人の主張です。園山証人、この点についてご意見を聞かせてください」
「結論から申し上げると、劣化試料であるとは考えられません」
「それはなぜでしょう?」
「遠藤鑑定でも私の鑑定でも、STR検査もY-STR検査も同様に、すべてのローカスでピークが出ており、その高さも十分にある。もしDNAが破壊されていれば、たとえば検出されないローカスがあったり、検出されても不自然にピークが低かったりして、不完全なDNAであることがわかります。精液のDNA型にそのような特徴はなく、劣化していないDNAであったと判断できます」
「そこから言えることは何でしょう?」
「綿貫さんの膣内に射精した真犯人は、彼女を殺害した後、精子のDNA型鑑定を不可能にすべく、証拠隠滅のため膣内に漂白剤を散布した。が、その意図に反して、精子のDNAは漂白剤に汚染されることも破壊されることもなく良好な状態のまま温存された。そう推測できます」
「剱持証人、どうでしょう?」
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