◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第210回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第210回
第10章──審理 56
園山は指摘する──DNA型鑑定の最大の闇が剱持の言葉に露呈している、と。

「漂白」目次


「すでに述べたように、吸い殻と精子のDNAは別人に由来するので、ほとんどの型が一致していませんが、一番高いピークと一番低いピークを比べてみると、あることがわかります」園山は具体的に注目すべきピークを指定した。「どちらも精子のピークの方が高い。私がすべてのピークの高さを集計して平均を割り出した表も出してください」志鶴は言われたとおりにした。「これを見てもわかるとおり、平均値でも精子のRFU値が煙草の吸い殻を上回っている。つまり──煙草の吸い殻のDNAより精子のDNAの方が濃いということです」

「そこから考えられる結論は?」

「煙草の吸い殻のDNAより、精液のDNAの方が状態がよい、良質な試料だということです」

「その理由は何が考えられるでしょう?」

「三つ考えられます。一つは、精液が屋外ではなく綿貫さんの体内で保存され、日光や空気による酸化などの影響を受けなかったこと。二つ目は、煙草の吸い殻のDNAより新鮮つまり新しかったこと。もう一つは精子という細胞の特性です。DNAの塩基配列はどの細胞でもすべて同じですが、安定性に関しては細胞の種類によって大きく異なります」裁判員に向かってゆっくり語りかける。「精子というのは、男性の体外へ単体で出たあとでも三日から五日間は死なずに生き続ける、細胞の中でも非常にユニークな存在です。さらにヒトはたった一つの精子と卵子の結びつきから無限とも言うべき細胞分裂をくり返して成長する。精子はそれだけの生命力を秘めている。初期のDNA鑑定の成功例はすべて精子からの鑑定でした。そうした唯一無二の特徴を持つ精子のDNAと、すでに細胞が死滅しつつある唾液のDNAとでは分子としての安定性はまったく違ってきます。劣化という点では、煙草の吸い殻のDNAの方が精液のDNAよりはるかに劣化が進んでいると言えます」

 志鶴は裁判員たちが消化できるよう間を取った。

「そこから言えることは他にありますでしょうか」

「煙草の吸い殻のDNAは、綿貫さんの殺害が行われたときより前に付着したものであろうと推測されます」

「わかりやすく言うと?」

「綿貫さんの殺害及び死体遺棄後に喫煙され、棄てられた煙草の吸い殻である可能性は極めて低い」

「その吸い殻に綿貫さんの血液が付着していた理由としては、何が考えられるでしょう?」

「真犯人が犯行以前に入手していた吸い殻を、わざと血液が付着するよう現場に遺した可能性が考えられます。劣化試料の問題については、以上です。もう一つの問題である対照試料について訊いてください」

「剱持証人は、対照試料というものについて、どのように誤導したのでしょう?」

「いやあ、語るに落ちる、っていうのはまさにこういうことだわ」苦笑いをした。「剱持証人のその言葉こそ、日本の科警研や科捜研という組織と、刑事司法におけるDNA型鑑定の最大の闇を露呈しちゃってるんですよ」

「DNA型鑑定の最大の闇? どういう意味でしょう?」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

最所篤子『小さなことばたちの辞書』
酒井順子『女人京都』