◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第212回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第212回
第10章──審理 58
尋問を終えた検察側が、裁判長に対し二つの請求をしたそのとき──。

「漂白」目次


「──園山証人?」

「まーた適当なこと言って。困りますよー、剱持さん」笑顔でたしなめた。「『どう見ても不自然に短い』って、それ、科学者の台詞ですかあ。それともアリル・ドロップアウトの定義をご存じないのかしら? ピークの高さが二百五十RFUを超える場合には、アリル・ドロップアウトを考慮する必要はないっていう基準が提唱されてるんですけど。九型のRFUは五百。どう見てもアリル・ドロップアウトじゃありませんね」

 世良の顔がこわばった。「剱持証人?」

「あのさあ、ドヤ顔してるけど、何度も言うけど、答え合わせできる別の試料がないんだからそれだけでアリル・ドロップアウトじゃないって決められないっての。そっちの態度こそまったく科学的じゃない。こんな人間が法医学の教育に携わってるなんて大丈夫なのかな、市原大学は」

「園山証人──?」

「馬鹿の一つ覚えみたいに『答え合わせできる別の試料』をくり返すんですねえ。PCRエラーが起きた場合、さっき劣化試料について申し上げたとおり、不規則な鑑定結果が出るというのが何よりの特徴です。少量のDNAを何度も増幅して十万から百万倍にする過程で、そっくり同じエラーが起こる可能性は天文学的に低い。遠藤鑑定と私の型鑑定がまったく同じ結果になっている以上、PCRエラーが起きた可能性はまずあり得ないと判断するべきです」

 世良が剱持を見た。剱持は眉間に皺を寄せ、右手で顎をなでていたが、世良を手で呼び寄せると小声で何か言った。世良が目を見開き、それから意を決したようにうなずいた。

「──尋問を終わります」世良が言った。「裁判長、精液を採取した状況について、司法解剖を担当した医師への証人尋問を改めて請求します。また、漂白剤の成分につきましても再鑑定を請求します──」

 何を言っている。信じられない。志鶴が動こうとしたとき──

「異議ありッ────!」デスクを両手で叩いて立ち上がった田口の怒号が轟(とどろ)き渡った。法廷中の視線が集まる。田口は、これまで保ち続けてきた穏やかな雰囲気をかなぐり捨て、仁王のごとき覇気を総身から発して眼鏡のレンズ越しに眼光の切っ先を世良に突きつけていた。しんと静まり返った法廷でふたたび口を開く。「司法解剖を担当した医師は精液採取時に漂白剤との関係を示す写真その他記録を残しておらず、証言もしていない。精子のDNA型鑑定に対する自分たちの弾劾が失敗したがゆえ、精液に漂白剤が付着していたと医師に証言させようという魂胆は火を見るより明らかである──! 同様に、漂白剤の成分についても、弁護側による弾劾が成功したため、自分たちの望む結果を得るべく不正な再鑑定をしようとしていることも明々白々! これまでさんざん刑訴法316条の32"やむを得ない事由"を金科玉条、錦の御旗(みはた)と掲げ、真実追求のための弁護側からの補充捜査には頑として応じなかったにもかかわらず、自分たちが不利になれば追加で証人尋問、再鑑定を請求する──そんな不正義は断じて許されない──!」

 びりびりと獅子吼(ししく)に打たれた世良の顔が青ざめている。剱持は口の端を歪めてうろんな目で田口を見た。田口の勢いは止まらない。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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◎編集者コラム◎ 『海が見える家 旅立ち』はらだみずき