◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第213回

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第10章──審理 59
第六回公判。逮捕前の増山に任意の取調べを行った灰原巡査長が出廷した。

「漂白」目次


 

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 五月三十日。増山の第六回公判期日。

 傍聴席には抽選に当たった増山文子の姿があった。

 昨日、事務所に戻るとすぐ、志鶴はトキオのものと思われるネオエースの写真が投稿されたインスタブックのアカウントに、もう一度メッセージを送った。が、相変わらず反応はなかった。弁護士会に対して運営会社への23条照会の申し出を行い、駄目元で会社に直接発信者情報開示請求をかけたが、こちらも結果が出るまで時間がかかるだろう。

「本日から三日間をかけて、被告人の供述を巡り、自白の任意性という争点についての審理を行います」能城が裁判員に説明する。「今日と明日、二日にわたって、被告人を取り調べた捜査官への尋問を行いますが、その際、争点を明確にするため、補助証拠として取調べを録音録画したブルーレイディスク映像を適宜再生します」

「裁判長」志鶴は立ち上がった。「録画再生の注意点について説明させてください」

 公判前整理手続で、取調べ録画映像の法廷での再生が阻止できそうにないとわかった志鶴と都築は、再生を認める条件として再生に先立ってその危険性について説明させるよう能城に要求していた。

「手短に」能城が言った。

 志鶴は法壇の前に進み出た。

「これから何回かに分けて増山さんの取調べ映像が再生されますが、弁護人として裁判員の皆さんにぜひ記憶に留めておいていただきたいことがあります。冒頭陳述でもお話ししましたが、これから法廷で再生される録画映像は、すべて増山さんが綿貫さんの死体遺棄容疑で逮捕されたあとに撮影されたものです。増山さんが最初に罪を認めさせられる場面は収められていません。増山さんの取調べの全過程が録画されているわけではありません。そのことをご記憶し、その意味を考えながら取調べ映像をご覧くださいますよう、お願いします」

 裁判員に一礼して席に戻った。言いたいことは他にいくらでもあった。が、能城が許さないだろう。

 自白の任意性を争うのは困難だ。まず取調べを行った警察官や検察官が自ら取調べに任意性がなかったと認めることは絶対にない。録音録画がされていない取調べは完全に密室の出来事なので、取調官が口裏を合わせたら弁護側が強制や脅迫を証明するのはほとんど不可能だ。本来は検察官が自白が任意になされたことを立証するのが筋だが、実務上は弁護人が自白に任意性がないことを立証しなければならないようになっている。

 任意性が否定されるハードルの高さも理由の一つだ。弁護人からすれば明らかに任意性がないと思える自白であっても、裁判官がそれを認めてしまっている過去の判例は無数にある。取調べに当たる警察官は自白の任意性に対する意識が信じられないほど低いが、法の専門家たる裁判官が彼らのやり方にお墨付きを与える形になってしまっているのだ。専門家証人への尋問を含めた今日からの三日間は、増山の無罪がかかった最大の正念場であり、最悪の難所だった。

 DNA型鑑定では検察側に一矢報いた手応えがあった。が、ここでも同様にうまくいくとは限らない。

 傍聴席の最前列には、DNA型鑑定にまつわる証人尋問のときと同様に、検察側、弁護側それぞれの専門家証人が座っている。彼ら自身が次に尋問を受けるのに備え、灰原たち取調官への尋問を傍聴しておくためだ。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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