◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第214回

あなたは犯罪捜査規範を知っていますか──志鶴は灰原に尋問を開始する。
「証人の証言を明確にするために、三月十三日付で作成された供述調書を示します──」
灰原自身が作成した調書なので、弁護側が不同意にしても結局法廷に顕出されてしまうことは防げない。ディスプレイに映し出された書面を、青葉が読み上げる。
「『今回の事件を起こしたときの状況について話します。私は、令和×年二月二十日の夜、綿貫絵里香さんの遺体を荒川河川敷に遺棄しました。すでに死亡していた綿貫さんの遺体を、亡くなったことを知ったうえで、河川敷の舗装路上に捨て置き、その場を去りました。これが今回の事件を起こしたときの状況です。増山淳彦』。『以上のとおり録取して読み聞かせた上、閲覧させたところ、誤りのないことを申立て、末尾に署名指印した。足立南警察署 司法警察員 灰原弘道』。私は書いてあるとおり読みましたね?」
「はい」
「終わります」青葉が席に戻った。
志鶴は主尋問で裁判員にも注意を払っていた。彼らが灰原の証言に疑問を持っている様子はなかった。
反対尋問に立つ。
「あなたは、日本の警察官が犯罪の捜査を行うに当たって守るべき心構え等について、国家公安委員会が定めた、犯罪捜査規範を知っていますか」
「知っています」
「第168条にどう書いてあるか教えてください」
「──えー」目を泳がせ息を吸った。
「裁判長、異議があります」青葉が立ち上がった。「関連性のない質問です」
「関連性はあります」志鶴は答えた。「犯罪捜査規範第168条は、取調べの心構えの中で、任意性の確保について定めた条文です」
能城が青葉の異議を棄却した。
「もう一度お訊ねします。犯罪捜査規範第168条にどう書いてありますか」
「えーと……取調べに当たっては、任意性を確保することが大切である、でしょうか?」
「違います。第168条──"取調べを行うに当たつては、強制、拷問、脅迫その他供述の任意性について疑念をいだかれるような方法を用いてはならない"。どうやらあなたは、自白の任意性を確保する重要な判断基準を知らずに取調べを行っているようですね」
灰原が渋い顔になった。出鼻のジャブはヒットした。法廷で、取調べに当たった捜査官が、被疑者に自白を強要あるいは誘導したと認めることは絶対にない。録音録画がされていない部分であればなおのこと。密室内の出来事については取調官と被告人との間で言った言わないの平行線をたどることになる。すでに虚偽自白を取られてしまって圧倒的に不利な状況を挽回するためには、強要や誘導の事実そのものを示すことができなかったとしても、取調官の証言の信用性を削げるだけ削ぐことが獲得目標となる。
「増山さんへの取調べで、あなたはそれを守っていましたか」
「守っていました」まっすぐ前を見て答えた。
「あなたは先ほど、取調室には常に三人の取調官がいたと証言しました。それは噓で、本当は常時四人いたんじゃないんですか?」
「いえ、三人でした」
「久世巡査部長と柳井係長は入れ代わってなどいませんよね?」
「入れ代わってました」
「北警部が増山さんの正面に座り、久世刑事と柳井刑事は増山さんを取り囲むように立っていたんじゃないですか」
「違います」
「どう違うんですか」
「久世巡査部長と柳井係長が同時に被告人を取り囲んだことはありません」
「立っていたことは認めるんですね?」
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