◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第215回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第215回
第10章──審理 61
取調べの詳細を問われ、動揺を隠せない灰原。検察側の足並みが乱れ……。

「漂白」目次


「あなたは先ほど、増山さんが『ごめんなさい、もう許してください』と言ったのは、柳井係長に、綿貫さんが行方不明になった日の夕方、星栄中学校でソフトボール部の練習を見ていたのではないかと訊かれたから、と証言しました。増山さんがそれ以前の二月十一日にソフトボール部の試合を観戦している様子はビデオカメラの録画映像に記録されていました。増山さんはその映像を突きつけられ、試合を観ていたことを認めた。綿貫さんが行方不明になった日の夕方についても、増山さんが星栄中学校にいたことを立証できる、防犯カメラ映像のような証拠はあるんですか?」

「──本人がそう自供しました」

「もう一度質問をくり返しますね。綿貫さんが行方不明になった日の夕方についても、増山さんが星栄中学校にいたことを立証できる、防犯カメラ映像のような証拠はあるんですか?」

「……ありません」

「増山さんに、綿貫さんが行方不明になった日の夕方の行動を訊いたとき、ソフトボールの試合映像のような証拠を突きつけましたか?」

「……いいえ」

「証拠がなく、増山さんに突きつけてもいなかった? なのに増山さんは『ごめんなさい、もう許してください』とあなた方に懇願したんですか」

「そうです」

「本当は柳井係長が増山さんに、綿貫さんを殺害したんだろうと執拗に質問責めにしたから耐えかねた増山さんが、『ごめんなさい、もう許してください』と言ったんですよね?」

「違います」

 プレッシャーを与えることには成功しているようだ。少し緩急をつける。

「ところで、柳井係長と違ってあなたは、ストレス下にあった増山さんに無理に自白を迫ったりせず優しく接してくれたと聞いています。『もう許してください』と懇願したあと、増山さんはパニック状態に陥って席を立ったことがある。覚えていますか?」

 目をぐるっと動かした。青葉が異議を唱えるか迷う様子を見せた。取調べに立ち会った刑事たちは事前の証人テストで、増山に自白を強要した事実は口裏を合わせて検察官にも隠していたはず。増山が立ち上がったことは青葉には初耳なのだ。

「……覚えています」

「増山さんは、柳井係長や北警部に制止され、ふたたび座ろうとしました。その際、椅子がないところで腰を下ろしてしまい、尻もちをついた。手を差し伸べて起き上がらせてくれたのはあなたでしたよね?」

「そうです」それまでひと通りプレッシャーのかかる質問に噓で応じなければならなかった反動からか、志鶴の質問を自分にとってプラス方向のものだと思い込んで認めたのだろう。狙いどおりだ。

「立ち上がる直前、増山さんが何と言ったか覚えていますか」

 増山を見た。「何と言ったかまでは……」

「『帰りたいです。帰してください』──増山さんはそう言って立ち上がったんです」

「そうでした」うなずいた。

 検察官が異議を出せないうちに灰原が認めてしまった。取調べの最中に増山が立ち上がったことが自白の任意性判断でマイナスに働くという認識もなく、この質問で志鶴が本当に獲得したい目標へと至る射程の長さにも考えが及んでいない。

 獲得目標を一つゲット。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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