◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第22回

「一人では難しそうね」事務所所長の野呂加津子が志鶴の協力者に挙げたのは──。
記事に書かれていることが事実なら、ビデオ映像が証拠として採用されるのを阻止するのは難しい。ほんのついさっき仮定した前提が一瞬で崩された。増山は、生前の綿貫絵里香を知らないと首を振った。あれは嘘だったのか。体から力が抜けそうになる。
志鶴は、ジャケットのポケットに手を入れ、シリコン製のリストバンドをつかんだ。
レインボーカラーの側面には黒字で「RAIN&BOZE」というロゴがプリントされている。レインアンドボウズ。志鶴が高校生の頃組んでいたバンドの名前だ。シリコンバンドはそのバンド仲間で作ったオリジナルだった。
スマホと耳をイヤホンでつなぎ、アプリを起ち上げる。ライブラリのトム・ロビンソン・バンドのアルバムから、「2―4―6―8 モーターウェイ」を呼び出して再生する。レインアンドボウズが一番多くカバー演奏した、志鶴たちのバンドの聖歌(アンセム)とも言うべき曲だ。
志鶴が生まれるはるか以前、一九七六年に結成されたバンドのデビュー曲。同級生の篠原(しのはら)尊と知り合わなければ、出会うこともなかっただろう。もはや歴史の彼方に思える、ロンドンのパンク・ムーヴメントの中で生まれたストレートなロックンロール曲は、今では志鶴を作り上げる細胞の一部になっている。
両手の指の筋肉が、反射的にベースラインを走ろうとする。力強い十六ビートに乗ったトム・ロビンソンのてらいのないヴォーカルを聴くうち、志鶴は自分の心がチューンされてゆくのを感じた。
北千住でつくばエクスプレスに乗り換えて秋葉原へ出、事務所へ直行する。時刻は八時過ぎ。オフィスに残っている人間は多くない。森元逸美も帰宅している。三浦俊也の姿もない。
「川村さん」
自分のデスクへ向かう志鶴を呼び止めたのは、所長の野呂加津子(のろかつこ)だった。
総白髪の髪の毛を肩の長さにそろえ、メイクもごくうっすらとしかしていない。七十歳前後のはずだが、いつでも背筋をぴんと伸ばし、体のラインに合ったスーツを着ている。
全共闘最後の世代の、しかも闘争を貫き通してきた真の生き残りであり、キャリアの核を形成しているのは左翼の活動家や死刑囚の弁護であるという、筋金入りの人権派弁護士だ。
「話は森元さんから聞いたわ。どんな状況?」前置きなしで訊いてきた。
「自供はしてしまったが、本人はやっていないと。ですから黙秘を勧めました」
「そう」加津子はうなずいた。「ざっと続報をチェックしたけど、自供の他には情況証拠しか報道されてない。他に何かありそう?」
「──過去に、訴追対象外の非行があります」
志鶴は、十六年前の事件を説明した。加津子の表情は変わらなかった。
「これから物証も出てくるかもしれない。一人では難しそうね」
「本当は三浦君に手伝って欲しかったんですけど──」
筋違いとは承知しているものの、事務所を離れようとする三浦に、少々恨めしい気持ちが湧いてくる。
「田口君と組んで」
「……え?」
志鶴の指導係である田口が担当している案件の大多数は民事事件だ。野呂に任じられない限り、積極的に刑事事件を引き受けるのは見たことがない。
志鶴が入所したばかりの頃、忘れられない出来事があった。事務所に依頼のあった痴漢事件を野呂加津子が彼に割り振り──田口は、所属する弁護士会の当番弁護士に登録していない──志鶴も勉強のため警察の留置場へ接見に同行したときのことだ。