◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第226回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第226回
第10章──審理 72
「増山さん。最初に一番大事なことをうかがいます」志鶴は主質問に立つ。

「漂白」目次


 

 刑務官に付き添われて出廷した増山は、志鶴と目を合わせようとしなかった。が、傍聴席にいる文子の姿に気づくと、しばらく彼女を見ていた。

 裁判官と裁判員が入ってきた。能城が開廷を告げ、増山を呼んだ。増山が立ち上がり、証言台へ向かった。能城が人定質問をし、増山が答えた。声がかすれていた。能城が増山を着席させた。法廷はしんとしている。皆が増山に注目していた。増山はがちがちに緊張している。前を向いていたが、法壇を見上げることはできずにいる。

 主質問に志鶴が立った。

「増山さん、まず深呼吸をしてください」

 咎(とが)める者はいなかった。増山は深呼吸しようとした。が、それほど深く呼吸はできなかった。緊張はまったく解けていない。

「増山さん、あなたは、逮捕された去年の三月十三日から今日まで、どれくらいの日数が経ったかわかりますか?」

 増山は志鶴を見てきょとんとした顔をした。打合せでは想定していなかった質問だ。

「わ、わかりません……」

「四百四十五日です──四百四十五日」くり返した。「長かったですよね。この四百四十五日間、あなたはずっと身柄を拘束され、自由を奪われていた。裁判官に接見禁止を出され、われわれ弁護士以外とはアクリル板ごしにも話をすることはできなかった。あなたの身を案じているお母さんと言葉を交わすことも許されなかった。増山さん、とてつもない孤独の中、よく頑張りましたね」

 傍聴席で文子がハンカチに顔を埋(うず)めた。増山の顔が歪んだ。涙が浮かんだ。「う……」と声が漏れ、涙がこぼれ落ちた。声を出さずに泣いた。これで少しは緊張がほぐれたはずだ。

「増山さん。まず最初に一番大事なことをうかがいます。あなたは綿貫絵里香さんを殺害しましたか?」

 増山が顔を上げた。「──してません」

「綿貫絵里香さんの死体を遺棄しましたか?」

「してません」声はかすれていない。

「浅見萌愛さんを殺害しましたか?」

「してません」

「浅見萌愛さんの死体を遺棄しましたか?」

「してません」

「裁判員の皆さんの顔を見て答えられますか?」

 増山は目線を上げ法壇を見た。裁判員の何人かと目が合った。増山から目をそらす者もいた。「はい」

「次に、少し細かなことをお聞きします。お二人の死体が遺棄されていた荒川河川敷に、あなたが最後に行ったのはいつですか?」

「……はっきりとは覚えてないです」

「なぜ覚えていないのでしょう?」

「もうずっと行ってないから」

「なぜですか?」

「あの河原は原チャリが入れないから。原チャリに乗る前、高校生くらいまではチャリ──自転車でときどき行ってました」

「原チャリとは、原動機付自転車、いわゆる原付バイクのことですね。いつから乗るようになったんですか?」

「高校を卒業してから……だから、たぶん、高校を出てからはあの河原には行ってないと思います」

「河川敷の死体遺棄現場で、あなたがふだん喫っているのと同じ銘柄の、あなたと一致するDNA型の煙草の吸い殻が二本、綿貫さんの血がついた状態で発見されました。これはなぜでしょう?」

「……わかりません」

「検察官はあなたが捨てたと主張しています」

「俺じゃないです」検察側席を見た。「行ってないのに、そんなところに煙草を捨てるわけない」

「では、あなたと綿貫さんの関係についてお聞きします」増山が身をこわばらせた。「あなたと綿貫さんの関係は、どのようなものでしたか?」

 増山は眉根に皺を寄せ、言葉を選ぶように、「関係、っていうか……ソフトボールの試合で見ただけです」

「ソフトボールの試合とは、二月十一日に星栄中学校で行われた試合のことですね。あなたはなぜその試合を観たんですか?」

 増山が固まった。法廷に沈黙が流れた。

「被告人、返事は?」能城が促した。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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