◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第233回

冤罪で突き落とされた人々の無念と悲しみ──弁護人は最終弁論に立つ。
先ほどのショックはまだ尾を引いている。ポケットの中のシリコンバンドを握った。
篠原尊(しのはらたける)のことを思い出せ。星野沙羅のことを思い出せ。田口に聞いた藪本廉治のことを思い出せ。これまで冤罪によって地獄に突き落とされていった数々の被害者たちのことを思い出せ。巻き込まれて同じように人生を狂わされた人たちのことを思い出せ。彼らが奪われて二度と取り返すことのできないものに思いを馳(は)せろ。彼らの無念と悲しみと怒りに思いを馳せろ。そのすべてを己の闘う力に変えろ。
増山を見た。すっかり血の気の引いた顔で、すがるように志鶴を見ていた。志鶴は腹に力を込め、うなずいて見せた。
立ち上がった。全身にエネルギーが満ちる感覚が蘇っている。法廷の中央に進み出て、三人の裁判官、六人の裁判員、三人の補充裁判員を見上げた。ゆっくり呼吸した。迷いも不安もない。晴れ渡った青空のように精神が澄んでいる。
「この公判が始まった初日、冒頭陳述で私は皆さんに、すべての証拠の取調べが終わったあと、もう一度皆さんの前に立って何が正しい結論なのか証明することを約束しました。その約束を果たします。そのためにまず、検察官の立証が正しかったかについて語ります。次に法律について語ります。そして最後に正義について語ります。長期間に及ぶ審理で皆さんもお疲れとは思いますが、今少しお時間をください。まず検察官の立証が正しかったかどうか。浅見萌愛さんの殺害及び死体遺棄について、検察官が示した証拠はこのようなものです──」
志鶴はディスプレイにスライドを表示させた。
浅見萌愛さんの事件で検察官が示した証拠
①17年前の増山さんの逮捕記録
②関係者による供述
③増山さんのパソコンのウェブ履歴及びDVD
④防犯カメラ映像
⑤目撃証人の証言
検察官と同様、志鶴もスライドと同じ内容の書面を裁判員に配っている。
「殺人罪の構成要件を簡単に言うと、殺意を持って人の生命を断つことです。検察官が示した証拠で、増山さんが殺意を持って浅見萌愛さんの生命を断ったと疑いなく証明されていると言えるでしょうか?」
裁判員たちは手元の書面やディスプレイを見て考えている。
「証拠を詳しく検証してみましょう。検察官は、①17年前の増山さんの逮捕記録、②関係者による供述と③増山さんのパソコンのウェブ履歴及びDVDから、増山さんには浅見さんを殺害する動機があった、と主張していますが、こんなものは殺人の証拠とはなりません。どうしてか。動機は殺人罪の構成要件ではないからです。これらの証拠が示しているのは、増山さんの個人的な性的嗜好だけです。それ以上の意味はまったくありません。性的嗜好というのはその人が持つ属性の一つに過ぎません。
なるほど、増山さんの性的嗜好は世間一般には好ましいと考えられるものではないでしょう。犯罪的であると考える人もいるかもしれません。しかし──その人の個性を根拠として犯罪を犯しただろうと推測することは法律的には許されません。かつて同性愛という性的指向は後天的で治療可能な『病気』であるとみなされていた時代、国がありました。現在ではその認識は間違っており、同性愛者となる性的指向を決定づける原因は遺伝子や脳など生まれ持った要素の方が大きいという研究結果が出ています。皆さんの中に、誰かがゲイであるという理由で犯罪を犯したと判断する人はいますでしょうか?」
志鶴は裁判員を見渡した。