◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第235回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第235回
第10章──審理 81
「では、正義とは何でしょう?」最終弁論で志鶴は裁判員に向けて問う。

「漂白」目次


 志鶴は息を吸った。

「──お約束どおり、今度は法律の話をします。冒頭陳述でもお話ししたとおり、被告人が間違いなく有罪であると検察官が証明しない限り、被告人は無罪とされなければなりません。検察官は国を代表しています。国家権力や、膨大な税金や、多数の捜査官や取調官という強大なバックを持っています。一方、訴えられている側の増山さんは、何の権力も持たない無力な一個人です。自らの資力で弁護士や専門家証人を雇うことでしか自分の身を守ることはできません。弁護人には警察や検察のような特別な権限はなく、税金のような豊富な資力もありません。刑事裁判では、訴える国と、訴えられる個人との間に、気が遠くなるほどの力の差が存在している。だからこそ、有罪を認めるハードルは高く設定されているのです。被告人である増山さんには、本来、自分の無実を証明する必要はありません。刑事裁判は、検察官が疑いの余地なく有罪を立証できたかどうか、その主張が間違いなく認められるかどうかを、証拠に基づいて検証するものです。このことを今一度思い出し、心に留めておいてください」

 志鶴は間を取った。

「最後に正義についての話をします。正義なんていう言葉を聞くと、うさん臭く感じる人もいるかもしれません。私もふだんはそんな言葉は使いません。ですが、皆さんがこの法廷にいるのは、正義を果たすため。そこから逃れることはできません。では、正義とは何でしょう? 百人いれば百人の正義がある──そのとおりかもしれません。裁判員にとっての正義は、はっきりしています。法律に則って正しい判断をすることです。もし冤罪であれば、これまでに積み重なってきた過ちを正すことも、裁判員にとっての正義です。警察官も捜査や公訴を担当する検察官も、公判を担当する検察官も、日本の刑事司法に携わる人たちは、アクセルを踏んで突っ走ることしかできません。この事件に関わった誰一人、増山さんが真犯人ではない可能性を一切考えず、増山さんは逮捕・起訴され、公判でも検察官から攻撃を受け、さらには死刑まで求刑されています。彼らは悪意を持って増山さんを犯人に仕立て上げたのでしょうか? いいえ。善意と正義感に駆られてそうしたのです。ですが、最悪の過ちが善意や正義感から生じてしまうことも事実です。善意や正義感に駆られている人は、自分が間違っているかもしれないと考えないからです。そのせいで増山さんは正当性もなく、国家によって長期間自由を剝奪され、収入も仕事も名誉もプライバシーも、肉親との交流まですべて奪われてしまったのです」

 志鶴は検察官を見てから、法壇に目を戻した。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.86 紀伊國屋書店福岡本店 宗岡敦子さん
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』