◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第236回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第236回
第10章──審理 82
増山の最終陳述のあとに意見陳述を希望した被害者参加人が、証言席に──。

「漂白」目次


 

 休憩後、公判が再開された。

「被害者参加人による意見陳述を行う」能城が告げた。

 天宮が衝立の陰に入り、ほどなく出てきた。表情は読めなかった。「私のクライアントは──遮蔽措置なしに証言台で陳述したいとおっしゃっています」

「承知した」

 傍聴席がざわめいた。志鶴は胃がきりきりするのを感じた。これまで遮蔽措置をしていたのになぜ今になって自ら顔を出す気になったのか。

 天宮が衝立の陰に入り、出てきて、検察側の自席へ戻った。衝立から一人の女性が現れ、法廷中の目が集まった。上品なグレーのジャケットとスカートのセットアップを着て、黒いストレートの髪をバストまで伸ばしている。メイクはほとんどしていない。派手ではなかったが、同年代の中年女性と比べて、生活の匂いが感じられなかった。自分のクライアントはエスタブリッシュメント層であると語った天宮の言葉を思い出した。

 綿貫麻里は落ち着いた足取りで証言席に進んだ。

「どうぞ、席についてください」能城が促した。

 綿貫が席に着いた。

「被害者である綿貫絵里香の母親、綿貫麻里です」丸みはあるが凜(りん)とした声だった。「絵里香は私にとって最愛の娘です。親である私が言うのも何ですが、素晴らしい子でした。何より心のきれいな子で、他人を思いやる優しい気持ちも持っていました。絵里香には素晴らしい将来が待っていると信じていました。まさか──まさかあんな形で奪われてしまうなんて想像できませんでした」目が潤んでいる。が、口調はしっかりしていた。「犯人は絶対に許せません。正直に言えば、死刑でも足りないくらいだと思っています──」

 裁判員の何人かが増山を見た。増山が不安そうな顔になった。志鶴の心臓の鼓動が速まった。

「ですが──罰は、受けるべき人間に受けてほしいと思います。被告人が逮捕されたとき、私は、絵里香を殺した犯人が捕まったと信じていました。この公判が始まるまで、ずっとそう信じていました。でも、公判に参加しているうちに、しだいに疑問が生じてきました。本当に被告人が犯人なのか、と」

 傍聴席がざわめいた。びっくりしたような顔をする裁判員がいた。能城の顔が白くなったように見えた。

「その疑問は、公判が進むにつれどんどん強くなっていきました。それと同時に、なぜ警察は、被告人以外に真犯人がいるかもしれないと考え、その方向で捜査をしていないのだろうと思うようにもなりました。私には真実はわかりません。正直、被告人に同情する気持ちもない。でも──何だか気持ちがもやもやします。もしこのまま、被告人が犯人として処罰されたら、絵里香の事件は解決したとされ、警察もこれ以上捜査をしないでしょう。絵里香を愛する母親として、私はそれでは納得できないと思います。この先もずっと、もやもやした気持ちを抱えて生きていくことになると思います。足利事件について調べてみました。冤罪だったとして、一度は有罪になった人は自由の身になりましたが、その後、真犯人は捕まっていません。いたいけな少女を欲望のために手にかけたけだもののような人間が、自由の身で大手を振って歩いているということです。まだ小さかった娘さんを殺されたご両親の身になって考えると、おそろしいことです。もし間違った人を逮捕しなければ、真犯人の捜査が続いていたかもしれません。この場でこうしたことを言っていいかどうかはわかりません。が、私の希望を申し上げます。私は、絵里香の事件の捜査はまだ不十分だと思います。警察にはもっと徹底的に捜査をしてほしい。そのために──裁判官の皆さん、裁判員の皆さん、どうか間違った人に罪を問わないでください!」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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