◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第237回

「本当にあの立証で死刑を──」公判二日後、能城の発言が波紋を呼ぶ。
三人の検察官の顔色が変わった。だが驚いたのは志鶴も同じだった。田口もだろう。
「そ、それは──」世良の表情はこわばっていた。「裁判長はどうお考えですか……?」
「検察官による立証が合理的疑いを挟む余地がないほど強固なものであるかどうかを判断するのはわれわれ三人と、六人の裁判員の合議体である」
「被告人の自白の任意性については認めていただけましたが──?」
「過去の判例と照らし合わせれば、被告人の自白には任意性があると判断せざるを得ない、というのが裁判官の一致した意見だ。しかし──中間評議で裁判員にも心証を訊いたところ、彼らの間では、自白の任意性はなかったとする意見が四対二で反対意見を上回る結果となった」
右陪席と左陪席がうなずいた。世良が口を開けて固まった。志鶴と田口は顔を見合わせた。思いもよらぬ話だ。
「一昨日、すべての審理が終わったあと、評議室で裁判員からその時点での有罪無罪に関する心証を訊いてみた。するとやはり四対二で被告人は無罪とする意見が有罪とする意見を上回った」
検察官たちが愕然(がくぜん)とした様子で顔を見合わせた。世良の顔は真っ白になっている。
「──裁判長もおっしゃったとおり」世良が必死な様子で言った。「裁判員の四人が無罪でも、過半数にはなりません」
全員一致を前提とするアメリカの陪審制度とは異なり、日本の裁判員裁判の判決は、裁判官と裁判員全員の意見が一致しなかった場合は多数決となる。裁判官も裁判員もそれぞれ等しく一票を持つ。もし裁判員のうち四人が無罪意見でも、三人の裁判官がいずれも有罪意見だった場合、裁判員二人と合わせて有罪意見の方が多数となる。
能城はじっと世良を見つめた。右陪席と左陪席も同じく無言で世良を見た。世良が衝撃を受けた様子で目を見開いた。青葉が眉をひそめ、蟇目は天を仰いだ。
「この場限りという条件で裁判所の見解を述べる」能城が口を開いた。「本件において、検察官立証には常識的に考えて合理的疑いを挟む余地がある。弁護人が指摘したとおり、検察側は、浅見萌愛氏の事件について当初証拠としていた物証の一つを論告において取り下げた」浅見の遺体の首に遺っていた手の指跡のことだと補足した。「浅見氏の事件において被告人の犯人性を立証するに足る証拠構造は存在しない。綿貫絵里香氏の事件について、被告人の犯人性を示す証拠として被告人の自白が存在する。しかしそれを補強する補助証拠は被告人の犯人性を推認させるには弱い。のみならず、被害者の体内から採取されたDNA型鑑定の結果、及び、関係者証人が証言した漂白剤の成分の関係結果は、むしろ被告人の犯人性を否定し、検察官立証の不十分さを示す証拠である」
- 1
- 2