◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第238回

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第10章──審理 84
検察官と裁判官の「協議」に立ち会った弁護人の志鶴と田口は……。

「漂白」目次


 

「どういう意図でしょうか」裁判所を出ると志鶴は田口に疑問をぶつけた。

「考えられるのは──無罪判決の回避」田口が言った。

 裁判官の独立は憲法で定められている。が、現実には日本の裁判官は常にお互い監視し合い、組織の論理からの逸脱は許されず、上司が絶対の世界で、人事評価と人事異動によって支配されている。刑事訴訟で無罪判決を連発したり、国家損害賠償訴訟で国を負けさせたりすると、上司の覚えが悪くなり報復人事を受けて年俸が同期と比べていつまでも上がらなかったり、僻地(へきち)の裁判所を転々と異同させられたりする。裁判所も司法権力として政治体制の一翼を担っているからだ。

 無罪判決を出すことはその体制に弓を引くことに等しい。組織内で突き上げを食うだけではない。無罪を出そうものならすぐ控訴してやろうという検察官からの圧力もある。判決文を書くに当たっても、有罪判決以上に詳細かつ緻密に説得力のあるものを書かなければならず、膨大な時間と手間がかかる。常に多くの事件を抱え、事件処理数の多さが人事評価に直結する裁判官にとって、無罪判決を出すことは一般の人の想像をはるかに絶する大変な勇気と決断が必要になるのだ。

 能城は裁判長になってからこれまで一度も無罪判決を出していない。増山の事件でもそうするつもりはなく、検察官と協議したのはそれを避けるため──だとすれば。

「──まさか」志鶴は思わず足を止めた。

 田口も足を止め、うなずいた。

 志鶴と田口の考えは同じだった。

 刑事訴訟法第257条──"公訴は、第一審の判決があるまでこれを取り消すことができる"。起訴が取り消されれば、公判もなかったこととなり、有罪無罪の判決が下ることもなくなる。

 能城の目は節穴ではなく、志鶴が信じ込んでいたほど頑迷でもなかった。無罪判決の見込みを示すことで、能城は世良たちに究極の選択を突きつけた。

 だが、これほど世間の注目が集まる大事件で、審理がすべて尽くされたこんなタイミングで起訴が取り消されることなど前代未聞だ。無罪判決が出ると公判を担当した検事は検察組織内部で激しく突き上げられるが、検察の権威が失墜するという意味では無罪判決に劣らぬ、いやそれ以上のダメージがあるはず。まして起訴を決定したのは捜査検事のエリートと目される岩切だ。検察という組織がそんな「暴挙」を許すとはとても思えない。

 事務所に戻って志鶴と田口は今後の見通しについて相談した。

「何か裏があるとは考えられませんかね?」志鶴は疑念を口にした。

「たとえば?」

「裁判長が噓をついていて、評議の結果無罪になる可能性は低い、とか」

「だとすれば、起訴の取り消しはわれわれにとって有利な話でしかなくなる」

「いったん起訴を取り下げさせて、警察や検察に増山さんにとって不利な証拠を準備させる可能性は?」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◎編集者コラム◎ 『ダークマター スケルフ葬儀社の探偵たち』ダグ・ジョンストン 訳/菅原美保
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