◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載最終回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載最終回
終章──余震
喪われた名誉を完全に回復することは不可能だ。それでも志鶴は──。

「漂白」目次


 

 終章──余震

 

 都築が車寄せにバンを停めた。

 大型のバンはレンタカーだ。都築は予定より少し早く昨日退院したばかりだが、至って元気でステアリングを握るのが楽しそうだった。

 都築と志鶴、田口、そして増山文子(ますやまふみこ)が車を降りた。

 東京拘置所の正面玄関。しばらくすると刑務官に付き添われた増山淳彦の姿が自動ドアのガラスごしに見えた。文子が胸元で手をぎゅっと握り締めた。増山は差し入れた紺色のスーツに白いワイシャツ姿だ。面会所出入り口の外で陣取って巨大な望遠レンズを向ける大勢の報道陣を考慮してそうした。

 昨日の岩切の会見は野呂が指摘したように、検察庁による前代未聞の極めて異例な対応として、テレビでも多くの時間を割いて報道され、ウェブ上でもSNSのトレンドに挙がるほど話題となった。

 マスメディアは自分たちの過去の報道の是非を顧みることなくこのニュースに飛びつき、「識者」たちに賛否入り混じったコメントを発言させた。検察庁の対応を画期的と評価する者もいれば、審理が終わるまで起訴を取り消しできなかったことを批判する者もいた。だが、誤った捜査により逮捕、起訴された増山個人が受けた被害について、増山に寄り添った報道はほとんどなかった。増山が本当に犯人ではないのかと暗に疑うようなスタンスの報道もあった。増山のことは最小限に触れるにとどめ、二つの事件について再検証し、真犯人についての推理や憶測へとさっさと話題を進める番組もあった。増山の身の潔白が証明されたことを積極的に報道するメディアはなかった。

 かつて田口は増山を「情状弁護には最悪の属性を煮詰めたような男」と評した。たとえ冤罪(えんざい)の被害者であっても、増山のような人間が世間から同情されることはない。冷厳な事実を突きつけられたようだった。

 それでもマスメディアにとって増山はまだ追うべき対象だった。視聴者や読者は今、本当にこいつが犯人じゃないのかと増山を注視しているはずだからだ。今日も多くのカメラマンやリポーターが待ち伏せていることが何より雄弁にそれを物語っている。

 増山と文子は、今後もそうした世間の目に晒され続けるだろう。日本ではひとたび「容疑者」として逮捕され、実名で報道されてしまえば、喪(うしな)われた名誉を回復することは不可能だ。この国に暮らす多くの人たちの意識が変わらない限り、そうした状況が変わることもないだろう。

「淳彦……」文子だ。ささやくような声だが、万感の思いが伝わってきた。

 自動ドアが開いて増山が出てきた。文子を見ていた。文子がおぼつかない足取りで増山に歩み寄り、両腕を広げて抱いた。増山の体が大きいので、しがみついているようにも見えた。増山の胸に顔を埋めるようにして、「お帰り、よく頑張ったね……よく頑張った」と涙ながらに言った。増山は足を止め、自分よりはるかに小さな母を見下ろして顔を歪(ゆが)め、「母ちゃん」と言った。あとはもう言葉にならず、子供のようにしゃくり上げた。

 目の前のような光景を、これまで何度想像してきたことだろう。

 志鶴の胸にも熱く込み上げるものがあった。田口が眼鏡の下で目頭の辺りをつまんで目を細めた。都築は抱き合う母子を見てうなずいていた。

 増山が一歩前に進み出た。

 志鶴と田口、そして都築を真っ赤な目で見た。唇を引き結んでいる。

「川村先生、田口先生、都築先生──先生方のおかげです。お、俺……助けてくれて、本当にありがとうございました」そう言ってしっかり頭を下げた。

 ふいに目の前がぼやけて熱いものが目からあふれ出し、志鶴はびっくりする。止まらなかった。膝から力が抜けて崩れ落ちそうになるのを何とかこらえながら、全身を震わせて泣いていた。

 令和×年六月八日。

 長く苦しい闘いがついに終わった。空がどこまでも青かった。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

トイアンナ『ハピネスエンディング株式会社』
一色さゆり『カンヴァスの恋人たち』