◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第29回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第29回
第二章──窒息 05
自分が置かれている状況を理解していない増山。彼と信頼関係を築くのだ!

「──昨日もお話ししましたが、お母様にはしばらく会えません」

「何で?」

「警察が認めないからです」

「何だよー」目を伏せ、口をゆがめた。「何て言ってた、昨日?」

 増山文子から言付かった言葉を彼の前で繰り返した。聞き終えると、「それだけ?」と増山は言った。

「頼まれたアニメ番組も、ちゃんと録画してるから、って」

 増山が唸(うな)るようにため息を吐(つ)いた。

 なぜ昨日、十六年前の侵入事件について話してくれなかったのだ──そう問い詰めたい気持ちを抑える。まだ信頼関係を構築できていないのだ。その責任はこちらにある。彼自身、自分が置かれている状況をちゃんと理解できていない可能性も高い。昨日の不足をしっかりとリカバリーして、本来、初回接見で獲得すべき成果を得る。それが今日の接見の目標だ。

 こちらから伝えるべきことは、弁護人の役割、今後の見通しと対応。相手から聞き出すべきことは、容疑をかけられていることについての事実と、取調べの内容だ。そのための大前提が、信頼関係の構築。まずは、ラポール──話しやすい雰囲気──の形成から。

「……今日も、朝から取調べでしたか?」

 増山が鼻の付け根に皺(しわ)を寄せた。

「もうさあ、疲れたから、出してくんない?」

「残念ですが、今すぐには難しいです」

「あれは、保釈? 芸能人、クスリとかで捕まっても大体保釈されてるじゃん」

「そういう制度があるのは事実です。でも、請求できるのは、起訴後と決まっています。増山さんはまだ起訴されていないので、請求することはできません」

 増山の顔が険しくなる。

「じゃあ何しに来てんだよ。弁護士の意味ねえじゃん」

 答える前に一呼吸置いた。

「増山さん──ご自分が、なぜ今ここにいるか、わかりますか?」

 増山の下唇が下がった。まばたきをした。

「俺……警察が何か勘違いしてて、俺のこと犯人だと思ってるからだろ? 女の子の死体を捨てたって。勘違いだから、それを説明してさっさと出してくれっつってんじゃん! それが弁護士の仕事だろ?」

 志鶴が反応せずにいると、興奮の山を越えた増山が不安の谷へと下りはじめるのがわかった。口をつぐんで、志鶴の様子をうかがっている。

 昨日ここでした話は、ほとんど増山の頭に入っていない。

 失われた時間を思う。無駄にしてしまったのは、増山の持ち時間だ。刑事手続は待ったなし。刻々と減ってゆく一分一秒の価値は計り知れない。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。