◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第35回

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第二章──窒息 11
「……無視してたら、怒られない?」志鶴に黙秘するように言われた増山は……。

「漂白」目次


「あとで担当さんからも言われると思いますが、検察庁での検察官の取調べです。十六年前も、経験されたと思いますが」

「あれか……検事調べってやつ? それがどうしたの」

「ここの取調室とは環境が変わります。これまでのことは忘れて、やってみませんか、黙秘」

 ハードルを上げてしまった昨日とは逆に、軽く言ってみる。

「取調べするのも、検察官一人ですし。とりあえず、まず明日の取調べで一回お試ししてもらえないでしょうか?」

「お試し、って……そんな簡単に」

「実際、やることはそんなに難しくないんですよ。取調べの最初に『黙秘します』って言って、あとは何も言わない。それだけです」

 増山の反応は鈍い。

「増山さん。黙秘について不安なことがあったら、言ってください」

「……無視してたら、怒られない?」

「まあ、内心は怒るかもしれませんね。彼らも人間ですから。何とかして増山さんから不利な情報を引き出して有罪にしたい。でも、増山さんが話してくれなければ、情報を手に入れられない。だから腹が立つわけですよね。だったら、こうも考えられませんか? 取調べをする人たちが怒れば怒るほど、増山さんにとっては無罪を勝ち取るチャンスが増える、って」

 増山がまばたきをした。

「それに、いくら腹が立ったからって、取調官が増山さんに危害を加えるようなことは、まず起こらないはずです。増山さんもさっきおっしゃいましたよね。ものすごくプレッシャーはかけられたけど、耳元で怒鳴られたり、机を叩かれたりしたことはなかった、って。実際、昔はそういう取調べが当たり前に行われていたんです。でも、今は取調官も、好き勝手にはできません。とくに重大な事件では。どうしてかわかります?」

「……もしかして、カメラ?」

「そのとおりです。増山さんの事件では、警察でも検察でも、すべての取調べで録画が義務づけられている。取調官の言動も、はっきり記録に残されるということです。裁判になったら、裁判官や裁判員が見る可能性もある。ですから、取調べをする人たちも、増山さんを怒鳴りつけたり、まして暴力を振るったりすることはできないんです」

 問題点も明らかになった取調べ可視化の最大の意義はそこにある。かつては並外れた強靱(きょうじん)な意志を持つ一部の人間以外には「架空の権利」であった黙秘権の行使は、取調べ可視化によって普通の人間でも実行できる可能性が増したはずだ。

「だけど……しつこいじゃん、あいつら」

 志鶴はうなずいた。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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