◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第36回

増山の母親に、日本の刑事司法の厳しい実態を伝えた志鶴だが……。
「ドラマなんかを観ていると、裁判というのは、犯罪の真相がすべて明らかにされて一件落着する場所という印象を持たれるかもしれません。が、実際には、そんなことは起こりません」
「え、じゃあ……何をするんです?」
「検察官が被告人を攻撃し、弁護人が防御する──言葉を使った戦争と思ってください。その勝敗を判定するのが裁判官です。裁判官は、名探偵でも神様でもありません。真実を見通す神通力を持っているわけではありませんし、被告人のために無実を晴らすこともない。検察側と弁護側、どちらの言い分の方が正しそうに見えるか、という判断を下すだけ。たとえ淳彦さんが無実でも、検察側の主張が正しいと思ったら、おかまいなしに有罪にする。それが裁判官です」
「そんな──」文子が絶句する。
日本の刑事司法の実態を知らなければ、ショックを受けて当然だ。志鶴もかつて、彼女と同じように考えていた。
「九十九・九パーセントが有罪になる。それが日本の刑事裁判です。裁判官に期待をしても何にもなりません。防御するだけでなく、検察側の主張をすべて叩き潰してやっと同じ土俵に立てる。最初から、それくらい圧倒的なハンデが課された闘いです。不可能を可能にするくらいでないと、裁判に勝って増山さんを救うことはできません」
「でも……できるんですか、そんなこと?」
不安のどん底のような顔だ。すがるような目を見つめ返して言う。
「──そのために闘うのが弁護人です。全力を尽くすことを約束します」
「わ──私も! 私にできることがあれば、何でもします。言ってください」
彼女は立ち上がり、固定電話の横から紙の束と鉛筆を持ってきた。裏が白いチラシを切って束ねたメモのようだ。
「ありがとうございます。まずは、事件の前後の増山さんの行動について、お母様の思い出せる限りで教えてください」
捜査段階では、弁護人は捜査機関が収集・作成した資料を見ることができない。問い合わせても捜査の進捗や内容を教えてもらえるわけでもない。彼我の間には、圧倒的な情報量の差がある。弁護人は探偵ではないし、事件の真相を明らかにする義務もない。が、この不利な状況下で一刻も早くケース・セオリーを構築するためには、積極的な捜査弁護の一環として調査も行う必要がある。
文子から、現時点で思いつく限りの事実聴取をすると、午後十一時近くになっていた。が、明日の検察官との対決に備えて、まだやるべきことがある。どうやら今夜は事務所で泊まりになりそうだ。
不安そうな彼女を励まして玄関を出た志鶴に、眼鏡をかけた華奢(きゃしゃ)な女性が近づいてきた。
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