◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第38回

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第二章──窒息 14
東京地検の執務室。担当検事の放つ威圧感を志鶴は一身にあびることに。

 

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 目の前の男は、志鶴の名が記された弁護人選任届の写しを一瞥(いちべつ)すると、テーブルに放った。

「で?」

 黒縁眼鏡の奥の目には、錐のような鋭さがあった。

 岩切正剛(いわきりせいごう)。東京地検刑事部に所属する検事だ。白髪混じりのオールバックの前髪が一筋、額にかかっていた。五十歳前後だろうか。生えかけた無精ひげと皺だらけのダークスーツは、徹夜明けを思わせた。

 中肉中背ながら、応接セットで向き合っていてさえ、執務室全体に及ぶほどの威圧感を放っている。警察官に腰縄を打たれてパイプ椅子で取調べを受ける被疑者の圧迫感は、いかばかりだろう。

 カタカタ……カタ……。ドアに向く岩切の重厚な木製机に横付けされた立会(たちあい)事務官のグレーのデスクから、男性事務官がパソコンを打つ音が響く。

「増山淳彦さんの勾留を請求しないよう申し入れます」

 書面を差し出した。増山文子の供述調書と身元引受書を添えた勾留請求に対する意見書だ。

 増山に、逮捕後の流れを列車にたとえた。線路に当たるのは、刑事訴訟法によって定められた刑事手続だ。警察官も検察官も裁判官も、そのレールを外れることはできない。ダイヤグラムではないが、時間制限も設けられている。一般的に「持ち時間」などと呼ばれるものだ。

 こうした言葉が生まれるのも、起訴前の被疑者に保釈を請求する権利がない日本ならではの法律運用があればこそだった。志鶴のような弁護士にとって認めがたい実務がまかり通っていることの証左だが、さておき、増山に発付された逮捕状が執行された瞬間、時計は動き出した。

 逮捕後の警察の持ち時間は、四十八時間。その間は被疑者を留め置ける。さらに身柄を拘束するためには、検察官の請求に基づいて裁判官が発する勾留状が必要となるので、警察は制限時間内に事件を検察庁へ送る。警察から事件を受け取った検察の持ち時間は二十四時間。起訴前の被疑者を勾留するために、検察官はこの間に、裁判所に対し勾留請求を行う。

 それを防ぐため、志鶴は朝一番、増山の身柄が送られてくる前に東京地検へ乗り込んできたのだ。

 岩切は微動だにしなかった。書面に目もくれない。志鶴は不安になった。

「あの──」

「本気か」岩切がさえぎった。

「……え?」

「それ」と、顎の先で書面を示す。

「もちろんです」

「誰がボスだ?」

「ボス弁──所長は野呂と言いますが」

「帰って言ってくれ。ペーペーの練習台にする事件は選べって。オンザジョブトレーニングか何か知らないが、お宅の事務所は、本部係の検事に鉄砲玉を使い走りに寄越(よこ)すのか、とな」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。