◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第39回

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第二章──窒息 15
相手は東京地検刑事部のエース"鬼岩"。志鶴の体はすくみあがり……。

 岩切は、これまでに数々の重大凶悪事件の犯人を起訴してきた。本部係検事となってから「立てた」(起訴した)事案は、これまで公判ですべて有罪判決が下っている。警察で「割れなかった」(自白させられなかった)被疑者を、自ら取り調べて何人も割っている。検察や警察の関係者から「鬼の岩切」を縮めて「鬼岩」と呼ばれる東京地検刑事部のエースだ。

 係検事のなかでも、発生からすぐ事件に関わるのは本部係検事だけであり、いつでも警察から連絡を受けられるよう、本部携帯と呼ばれる専用の携帯を持たされている。ひとたび事件が認知されればプライベートな時間は吹っ飛ぶ。妻帯していないのもそのためだという。

 そうした話を、志鶴は弁護士仲間から聞いていた。それほど知られた人物だった。

 検察官は、犯罪を捜査する捜査機関として、警察官と共にその一翼を担う。だがその関係は対等ではない。検察官には、警察官を指示し指揮する指示権と指揮権があると法に明文化されている。秩序を維持する「公益の代表者」を自任する検察官は、志鶴が知る限りみな強烈なプライドの持ち主だが、おそろしく強大な権限こそその背骨となっているに違いない。

 それが捜査検事ではさらにかさ上げされる。検察内にはかつて「公判部は記録の運び屋」という言葉が存在したらしい。裁判員裁判が始まる前は、公判で、いわゆる「2号書面」──捜査担当の検察官が被疑者から取った調書──に沿って証人尋問をするだけで、極言すれば誰が立ち会っても九九・九パーセント有罪立証ができたという実情を踏まえればうなずける話だが、捜査重視、公判軽視の「伝統」の理由はそれだけではなかろう。

 日本の法制度は、明治維新以降、フランス、次いでドイツ、第二次大戦の敗戦を経てアメリカの影響を受けて変遷してきたが、フランスでもドイツでも、検察官が関係者の取調べを行うことはほとんどないし、アメリカの検察官は、犯罪の事実を解明することはもとより証拠を収集することすらしない。公訴を提起する訴追官、訴訟を遂行する原告官のみならず捜査官の顔も持つ、というのは日本の検察官の特色なのだ。

 とはいえ、取調べのみならず、熱心に現場に出る捜査検事は少数派だ。岩切から発せられる圧力の震源には、地道な捜査をいとわない昔気質(むかしかたぎ)の職人じみた矜持(きょうじ)があるのだろう。

「学校で何を教わったか知らんが、教科書に書いてあることが現場で通じると思ったら大間違いだ。こんな紙っぺら、何枚あっても無駄なんだよ」

 意見書をこちらへ放った。

「──意見書の受け取りを拒否する、ということでよろしいですか」

 志鶴は意見書を持ち上げた。よし、声は出る。

「事務官さん、しかるべき場所で証言をお願いできますか。岩切検事が、私が提出しようとした意見書の受け取りを拒否したと」

 打鍵の音が止まった。事務官が、とまどうようにこちらを見て、すぐに視線をそらした。

「おい、いい加減にしろよ!」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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