◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第39回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第39回
第二章──窒息 15
相手は東京地検刑事部のエース"鬼岩"。志鶴の体はすくみあがり……。

 だん! と岩切が手をテーブルに叩きつけた。体がすくんで、書面が手を離れた。恫喝(どうかつ)を繰り返すのは、それでこちらが引き下がると思っているからだろう。暴力の危機を感じた肉体に逃走反応が生じるのを、志鶴も止められない。

 ジャケットのポケットに右手を入れ、シリコンバンドを握り締める。

 ──イケてないよな、今どき昔のロックとか。

 脳裏に、篠原尊(しのはらたける)の声が蘇(よみがえ)った。

 

「でも、俺、そういうイケてないとこも含めて、昔のロックが好きなんだよね」

 放課後の屋上で、尊は言った。

「なんつーか──駄目なやつでも、そのままでいいじゃん、って言ってくれるようなユルさを感じるっつーか。イケてるとかイケてないとか、そういうのがどうでもよくなる感じ?
 国境とか人種とか権力や金のあるなしとか、そういう人と人の間の壁をとっぱらって、『人類みな平等』みたいな気持ちにさせてくれるっつーか……」

 そこで尊は、きょとんとしている志鶴たちに気づき、たはっと笑って頭をかいた。

「やっべー。俺、今カッコよかった?」

 

 人類みな平等。

 現実が不平等だからこそ謳(うた)われる絵空事だ。だが──絵空事を信じて何が悪い?

 ポケットのなかでリストバンドを放して、岩切をにらみ返す。

「増山さんの勾留請求をやめ、身体拘束を解いてください」

「見かけによらずしつこいな。俺は、若い女だからって甘やかすような男じゃねえぞ」

「その発言、セクハラです」

 岩切がぎろりと目を剥(む)く。

「くだらんな。訴えるか? 検事総長にでも抗議するか」

 検察官は総称であり検事総長をトップに次長検事、検事長、検事、副検事という職階があるが、個々の検察官が自ら国家意思を決定して表示する権限を持つ検察官は、その一人一人が「独任制官庁」とも呼ばれ、その権限の性質上強力に身分が保障されている。検察庁の上部組織である法務省の大臣はもちろん、内閣でさえ容易に検察官を罷免することはできない。

「適正な刑事手続に則らない違法捜査があれば、速やかに国家賠償訴訟を提訴します」

「コクバイと来たか。なるほど、人権派のセンセイってわけだな」

 面倒なのが来た──そう思い始めているなら好都合だ。

「"この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする"──刑事訴訟法第1条。増山さんの逮捕と勾留は不当で、人権を侵害するものです。増山さんを解放してください」

 岩切の目が暗く淀(よど)んだ。視線が粘性を帯びる。

「……まだ十四歳の、男遊びをしたこともないような真面目な女の子が刺し殺され、寒空の下、河川敷にゴミ同然に捨てられた。ただ捨てられただけじゃない。体中に漂白剤をかけられてだ。化学熱傷って知ってるか? 想像できんだろうな、見たことのない人間には。むごいなんて言葉でも生ぬるい姿だよ。俺は、今でも夢に見る」

 眉間の皺が深くなった。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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