◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第39回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第39回
第二章──窒息 15
相手は東京地検刑事部のエース"鬼岩"。志鶴の体はすくみあがり……。

「彼女はそのうえ、解剖台の上で切り刻まれる辱めを受けなきゃならなかった。もうこれ以上苦しまなくていい──救いがあるとすればそれだけだ。だが、遺された肉親にとっては、生き地獄の始まりだ。あんたも司法修習で、司法解剖には立ち会ったな? でも聞いたことはないだろう。無残に殺された娘の遺体と対面した母親の喉から絞り出される、とても人間の声とは思えないような痛ましい叫びは」

 想像してしまう。解剖台の上に横たえられている少女の肉体。想像のなかで、その顔は──杏のものだった。忌まわしいイメージを振り払う。

「命を奪うだけじゃない。殺人は、被害者と、その遺族の尊厳も破壊する行為だ。手を下した人間を捕まえても、命も尊厳も返ってこない。ご遺族の無念を晴らせるなんてうぬぼれちゃいねえ。それでも、犯人をきっちり裁けば、この国に正義があると示すことはできる。この仕事をしていれば、普通の人たちが一生かかっても出会わないような悲惨なものを何度も見ることになる。だがこの事件の犯人は、俺たちでもめったにお目にかかることのない、胸糞(むなくそ)が悪くなるような外道中の外道だ。絶対に許すわけにはいかねえ。あんたらが六法を振りかざしてわめき立てるのは勝手だがな、背負ってるものが違うんだよ、俺たちは」

 岩切の言葉には重みがあった。正義の実現のために真実を追究する。それが検察庁の掲げる理念だ。同期の修習生を見ても、検察官を志す者たちはみな正義感が強かった。岩切を突き動かしているのもきっとそれだ。

「こいつは受け取っておく」書面を見ずに指さした。「が、期待しても無駄だ」

 話は終わったというニュアンスだ。刑事部のエースである岩切が起訴に踏み切れば、公判を担当する検察官は、岩切のメンツを守るためにも増山を何としても有罪にしようと必死になる。冤罪へと一直線に暴走する巨大な力に歯止めをかけるため、できることは何でもするべきだ。

「無罪の人に対する勾留請求は無駄じゃないんですか?」

 志鶴を見る岩切の顔にどす黒い影が差した。

 先ほどの恫喝を思い出し体がすくんだが、すぐに開き直った。

「無罪? 何の話だ」

「増山さんのことです」

「あんたにはそう言ってるのか」

「それ以前に、証拠が弱すぎます」

 岩切の眉が上がった。「自白が弱い証拠だと? ロースクールじゃそんなこと教えてんのか」

「冤罪の最大の元凶は自白の強要です。確たる物証がないから取調官が自白の強要に走る。物証があればとっくに報道されているはずだし、性被害があれば遺体に物証が残らないはずがない。この案件は、典型的な冤罪の構造を持っています」

「性被害なんてどこが書いた?」岩切の目が光る。「増山が言ったんだな」

「違います。増山さんは、事件に無関係です」

 岩切が見透かそうとするかのように志鶴を凝視した。

「挑発すれば手の内を明かすとでも思ったか。浅知恵にもほどがある」

 かまをかけたことを見抜かれていた。

「やはり物証はないんですね」

 岩切の頰がかすかに緩んだように見えた。

(つづく)
 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第38回
◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第40回