◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第40回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第40回
第二章──窒息 16
「楽な商売だな人権派のセンセイも」捜査検事の挑発に志鶴は──?

「漂白」目次


「こわもての捜査官の前では噓はつけないが、あんたみたいな若い女が相手なら、増山のやつも好きに与太を飛ばせる。楽な商売だな人権派のセンセイも。記録も見ずに、依頼人の弁解を鵜呑みして検事に突っかかってりゃいいんだから。事件には無関係──増山があんたにそう言ってるなら、弁護士として舐められてるってことだ」

 挑発の返礼。こちらの目的が勾留請求の阻止と捜査の進捗状況を知ることなら、岩切の目的は、増山が取調べで語らず、志鶴だけに語った供述内容だ。

 岩切に渡した意見書には、増山から志鶴が聞き取った内容は記していない。増山に黙秘を勧めているのと同じ理由からだ。この場で志鶴の口から増山の無罪を主張するのも、情報のコントロールという観点からはリスクがある。

 ここで強力な証拠に裏付けられた反対仮説という右ストレートを叩き込んで検察官に勾留請求を断念させられたら理想的だが、今は無理だ。

「起訴前に捜査記録を開示してもらえない以上、依頼人の言葉が最大の判断材料となるのは当然です。この事件の犯人への検事のお怒りは察します。ですが、私は国家権力へ反抗するためだけに増山さんの解放を求めているわけではありません。冤罪を阻止するためあらゆる手を尽くすつもりです。冷静に証拠を検討したうえで判断することをお勧めします、岩切検事」

 また怒鳴られる覚悟をしていたが、志鶴を見る岩切の目に激情の色はなかった。

「あったらどうするつもりだ」

「──何がです?」

「物証。ないないとシュプレヒコールみたいに叫んでいるが、そいつが出たらどうするんだ」

「……あるんですか?」

 岩切は志鶴を見つめたまま、口をつぐんだ。答える気はない。

 あれば報道されているはず。違うのか? 岩切の沈黙には不穏な含蓄が感じられた。DNA? ひょっとして、今朝の家宅捜索で何か見つかったのだろうか。そんなはずは──。

「最近じゃ、裁判所の自白の証拠評価も厳しくなってる。俺たちが、被疑者が認めてるってだけで起訴すると思ってるのか?」

「『割れ、立てろ』──それが鉄の掟(おきて)では?」

「基準の話をしてるんだよ」岩切の切り返しには余裕が感じられた。「アメリカみたいにガバガバな国と違って、日本の検察官は、有罪の確信なしに起訴したりはしない。無罪率が低いのは伊達(だて)じゃねえんだ」

 検察官は有罪率ではなく無罪率という言葉を好む。

 日本で検察制度が始まった当初、起訴率も無罪率も今よりはるかに高かった。検察官が関係者に取調べを行い調書を作成することが一般的でなかったのが原因とされ、無実の人を起訴する危険や真犯人を証拠不十分で罰せられないことへの反省から、検察官自ら被疑者や参考人を取り調べるようになった。起訴率と無罪率が下がったのはその結果である。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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