◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第41回

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第二章──窒息 17
弁護方針をめぐり田口と衝突する志鶴。地検で接見した増山の口からは──?

 

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「聞き違いか、私の」銀縁の眼鏡の奥で田口の目が細くなった。「捜査検事に向かって、被疑者の無罪を主張した、そう聞こえたが」

 会議室。増山との接見が午後からなのでいったん秋葉原の事務所に戻った志鶴に報告を求めたのは、田口だ。

「そう言いました」

「私の意見は完全に無視か」

「一刻も早く依頼人の身体拘束を解くのは刑事弁護の基本です」

「ありがたい講釈がまた始まったな。授業料は払わなくていいのか」

 昆虫を見るかのようなまなざし。検察庁での岩切との折衝とは異なる、胃がきりきりするようなストレスを感じる。

 弁護士一年生である自分が生意気に、あるいは身の程知らずに思われているのは百も承知だ。斟酌(しんしゃく)するつもりはない。

「この案件を受任したのは私です」

「だから自分の弁護方針に従えと?」

「田口先生のご意見は参考にします。ですが私は、増山さんを冤罪から救うために最善の防御を尽くすつもりです」

「この時点でなぜ冤罪と言い切れる?」

「物証がありません」

「これから出たらどうするんだ?」

「検察官みたいな質問ですね。もちろん、警察による捏造(ねつぞう)を疑います」

 田口が、害虫を見るような目になった。

「野呂所長が私に協力を命じた意味がわかっていないようだな」

「一人では盲点ができる、と。ですが、田口先生は、一番大事な弁護方針さえ同意してくださらない。盲点以前の話です」

「弁護方針に盲点があるとは考えない、その暴走を野呂所長は案じたのだとは思わないか」

「たとえ所長の意見でも、弁護方針を変えるつもりはありません」

「相手が国家権力でも一歩も退(ひ)かない正義の味方か。いくらでも威勢のいいことを言えるだろうな、懸かっているのが他人の命なら」

 ぐっと歯を食い縛る。

「命が懸かっているかもしれないからこそ、です。命令で仕方なく協力してくださっている先生より、責任は感じているつもりですが」

「引き受けた以上、全力は尽くす。ずいぶん舐められたものだな」

 田口の表情や口調から真意を推測するのは難しい。むしろそれが本心でない方がありがたかった。こんな押し問答こそ不毛だ。

「私の弁護方針に同意してもらえないなら、協力していただかなくて結構です」

「さぞやご立派な先生なのだろうと思ってはいたが、ついに所長より偉くなったというわけか」

 思わず拳を握り締める。席を立つと会議室を飛び出した。受付の前を通り抜けて奥へと向かい、デスクのパソコンに向かう野呂加津子(かつこ)を見つけて歩み寄った。彼女が顔を上げ、何事かという目で見た。

「増山さんの案件、田口さんを相(あい)弁護人から外してください」

「なぜ?」

「弁護方針が一致しません」

 野呂の目が光った。「そうなることを私が予想できなかったとでも?」

「──え」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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