◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第44回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第44回
第二章──窒息 20
東京地裁刑事部を朝一番に訪れた志鶴。増山の担当判事と面接するが……。

「罪証隠滅、逃亡するおそれ、その双方についてです」

「具体的には? 増山さんが逃亡すると考える理由を教えてください」

「検事によれば、被疑者は被疑事実について警察の取調官に対しいったんは認めたが、検事調べにおいてそれを撤回し、否認に転じたということです。であれば、逃亡すると疑うに足る理由があると考えられます」

「では、罪証隠滅については? すでに家宅捜索も行われているんですよ。このうえどうやって罪証隠滅するんです?」

「家宅捜索をしたからといって罪証隠滅のおそれがなくなるわけではありません。家以外のどこかに凶器や遺留品を遺棄している可能性も考えられます」

「──つまり、結論は出てるってことじゃないですか!」思わず声が大きくなった。

 部屋にいた他の裁判官や書記官の視線が集まるのを感じた。

 くそったれ。どいつもこいつも。

 志鶴は奥歯を嚙み締めた。

 

 ──昨夜。

 夕食のあと、話をしようと杏の扉をノックしたが、無視された。あきらめて自室に入ると、階下でばたばたと母親が動いているらしき物音がした。階段を上がってきた彼女が声をかけて杏の部屋に入り、二人が何か話しているのが聞こえた。しばらくすると、部屋を出た杏が階段を降りる気配があった。志鶴がダイニングへ降りると、外出の支度をして大きな荷物を持って立つ母親と杏の姿があった。

「いつ帰ってくるんだ?」座ったままの父親が訊ねる。

 それほど動じていないように見えるのは、「避難」先が電車で二駅離れた母親の実家だからだろう。母親の両親は健在で、お互いひんぱんに行き来している。父親がここに家を建てたのは彼女の実家が近いからだ。杏も幼い頃からしょっちゅう泊りがけで遊びに行っている。

 母親は志鶴に目を向けてから、父親に向き直った。

「この家が杏にとって安全だと判断できるまでです」

「今だって、べつに危険ってわけじゃ──」

「危険よ! 志鶴のせいで、得体の知れない人たちがこの家に押しかけてくるようになった。さっきの人だって本当に新聞記者かどうかわかったもんじゃない。こんなところで杏が安心して暮らせるはずないでしょう。来年は受験だってあるのに」

 母親の傍らで、杏は目を落としたまま沈黙していた。父親は彼女を見て眉を曇らせたが、すぐいつもの穏やかな表情になった。

「お父さんの顔が見たくなったら、いつでも戻ってきていいんだぞ、杏」

 すると杏は、こくっと小さくうなずいた。

「杏……ごめんね。しづちゃんのせいで迷惑かけて」

 杏は顔をゆがめただけだった。

「行くわよ、杏」母親が彼女を促した。「さっき見たら、外には人がいなかったみたいだから、今のうちに」

 杏は目を合わせないまま志鶴の前を無言で通り過ぎ、母親とともに玄関へ向かった。父親は立ち上がり彼女たちを送りに出たが、志鶴はその場から動けなかった。

 志鶴は、目の前の判事をにらみつけた。

「──なるほど。これが、元日産会長カルロス・ゴーン氏の逮捕で世界にも知られることになった、悪名高い日本の『人質司法』ってやつですね」

 担当判事の目が、ぴくっと動いて一瞬志鶴と目が合った。

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

江國香織さん 『彼女たちの場合は』
降田 天さん 『偽りの春 神倉駅前交番 狩野雷太の推理』