◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第45回

冤罪の防波堤となってください!──志鶴の直訴は担当判事に届くのか?
裁判官や書記官たちは、正気を失った人間を見る目で志鶴を見ていた。さっさと排除したいが関わるのは願い下げという気持ちがありありと透けて見える。彼らは非難の矛先を、志鶴の目の前に座る同僚へと向けつつあった。その判事は中腰になり、「あの、大声は困ります」と志鶴を制止しようとした。
「反論があればどうぞ!」志鶴は彼に言った。「こっちにはまだ数字がありますよ。二〇一七年の検察統計、被疑者の勾留期間。十日以内と二十日以内を比較すると、十日以内が約三五・七パーセントに対し、二十日以内は約六四・一パーセント。おかしいですよね? 刑訴法208条に定められた勾留期間は十日。期間の延長ができるのは『やむを得ない事由』があるときに限っているのに、どうしてそっちの方が多いのか。しかも、この期間延長率、その後も増加の一途をたどってます。これ、期間の延長が当たり前になっているという証拠以外の何ですか?」
言葉を切ると、部屋に重苦しい沈黙が満ちた。
志鶴はふたたび腰を下ろすと、中腰のままの増山の担当判事の視線を捉えた。
「増山さんは、被疑事実を犯していません。ゴーンさんのとき、海外からさんざん批判されて悔しくなかったですか──日本の司法制度は中世並みだって? 私は、何でも欧米が進んでいるような論調にくみする者ではありません。ですが、日本の刑事司法は世界標準の人権をはっきり侵害していると思います。いくら自白を取るために身柄を拘束しようとする検察官がいても、あなた方が認めさえしなければ、人質司法なんて言葉、この国から一瞬でなくなるんです。お願いします──一人の人間として、増山さんの勾留要件について、現実的に、具体的に検討して、冤罪の防波堤となってください!」
志鶴は、担当判事に向かって深々と頭を下げた。
「……何か、あっという間に終わったんだけど」
東京地裁の地下にある接見室。アクリル板の向こうで椅子に座った増山は、当惑しているようだった。
勾留質問は、まるで流れ作業のように極めて事務的に行われる。検事調べのように時間がかかることはない。ほとんどの裁判官は、逮捕状に書かれている被疑事実を淡々と読み上げ、「この容疑についてあなたの意見は?」等と訊ねるものの、それに対する被疑者の応答にコメントすることはない。勾留請求が認められたか否かは、被疑者が待合室で待つ間に刑務官を通じて知らされることが多い。
「どんな感じでした?」一応、オープンクエスチョンを投げてみる。
「『何か言いたいことはありますか?』って訊かれたから、やってません、って答えた。そしたら、『あれ、黙秘するんじゃないんですか?』って。『あなたの弁護士さん、そう言ってましたけど。まあ、どっちにしても同じなんですけどね。検察官の勾留請求を認めます』って──何かうれしそうだったんだけど」
志鶴は黙ってうなずいた。あの担当判事は、増山に自分の口から十日間の勾留を宣告することを選んだのだ。自動令状発付マシーンにも、感情はあったらしい。
「俺……まだ十日も留置場から出られないの?」増山の目が泳ぐ。「てことは……まだ不起訴になってないってこと? あの検事さんにお願いすればいいのかな。おたく、頼んでくれない?」
アクリル板ごしにも伝わってくる依頼人の不安と懊悩(おうのう)は、志鶴の意識を、個人的な悩みから目の前の現実へとつなぎ止めた。
「昨日の検事調べで、増山さんは岩切検事に綿貫絵里香さんの事件とは関係がないとお話しされたんですよね? 二月にソフトボールの試合を観た理由も、それでもその後、綿貫さんとは接触していないし、荒川河川敷の死体遺棄現場にも大人になってからは行った覚えがないということも」
増山がうなずいた。
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