◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第46回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第46回

第三章──物証 01
土曜日も出勤する志鶴。同期の三浦は大手事務所への移籍を控えていた。

 第三章──物証

 

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 土曜日の朝、洗面所へ向かうと、キッチンから物音が聞こえてきた。

 ガスコンロに向かっていたのは父親の健一(けんいち)だった。一昨日(おととい)の夜、母親の久美子(くみこ)が妹の杏(あん)を連れて実家へ戻ったのを思い出す。

「おはよう」声をかけると、健一も振り向いて「おはよう」と応じて手元に目を戻した。手慣れた様子でフライパンを扱う。食欲をそそる匂いがする。

「志鶴(しづる)は今日も仕事だろ? 朝飯、食べていくよな」これは背中で言った。

 ほどなくテーブルに厚焼き玉子、なめこの味噌汁(みそしる)、たらこのおにぎりという朝食が並んだ。志鶴が幼い頃から、健一は妻に代わって料理をすることがあった。

「いただきます」

 おにぎりにかぶりつくと、ぱりっという音と共に海苔(のり)の香りが立った。温かい料理が胃を満たしていくにつれ、張り詰めていたものがほっと緩んだ。

「大丈夫かな?」健一が言った。

「うん。美味(おい)しい」

 健一が微笑(ほほえ)んだ。

「久しぶりだな、志鶴にご飯作ったの」

「……ごめんね、私のせいで」

「たまにはこういうのもいいさ。俺は今日は休みだし。平日はコンビニも活用して、お互い無理せずいこう」

「私はいいけど……お父さんはとばっちりだね」

 健一は、味噌汁の椀(わん)を置いた。

「『男子厨房(ちゅうぼう)に入らず』っていう言葉あるだろ? あれ、中国の故事に由来するらしいんだけど、今の日本の感覚だと、台所仕事は男のするようなものじゃないから女に任せておけ、っていう男尊女卑の象徴みたいに受け止められてるよな」

 突然の話題の転換に戸惑ったが、うなずく。

「もちろんそれもそうなんだろうけど、一説には別の意味もあったらしい」

「別の意味?」

「意図、って言った方が近いかな。昔の人が、幼い頃から男に台所仕事なんかの家事をさせないようにしたのは、身を固めさせるためだったっていうんだな。経済的に自立して身の回りのことも全部自分でこなせたら、結婚なんかしなくていいと思う男も当然出てくる。そうさせないために、あえて家のなかでは無力な存在にさせておくよう圧力をかけたって」

「それ、女性差別」

「現代の日本の基準に照らせば、完全にそうだろうね」

「ていうか、そこまでして結婚させたい理由が謎なんだけど」

「共同体を維持するためさ。男女が結婚せず子供を作らなくなれば、その社会はいずれ滅びる。いい悪いじゃなくそれが現実だ。『男子厨房に入らず』とか『男は家庭を持って一人前』っていう言い回しがいつの時代から使われているのかは知らないが、そうした言葉は共同体を維持していこうとする昔の人なりの知恵から生まれたものだったんじゃないかと思う。男尊女卑的な家父長制度にも、そういう意味での合理性はあったということだ」

「私は納得できないな。女性の人権が抑圧されることが前提の社会なんて」

「そこだよ」健一が、我が意を得たりといった顔をした。

「そこ、って?」

「今の話で言えば、女性差別が問題になって男女不平等が是正され、女性の社会進出が進むにつれ非婚化も進んで、結果的に日本の少子化に拍車がかかった──」

「異議あり。それは男女の平等化や、女性への社会のサポートが不十分だからじゃない?」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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