◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第48回

都築と田口の弁護方針が対立するなか、志鶴には信じがたい〈速報〉が──。
「では、私から」と言ったのは田口だ。
「ケース・セオリーについては、やはり現時点で否認一本に絞るのは危険だという意見だ。川村先生が捜査機関側に物証がないと前提していることが私には非常に危険に思える。認定落ちを狙う選択肢は残しておくべきだ。依頼人の身体拘束については、これだけの事件で裁判所が勾留を解くことも接見禁止を解くこともないだろうから、やるだけ無駄だ。その時間と労力を他に向けた方がいい」
そこで田口は都築の方を見た。
「都築先生のご意見は?」
「依頼人が否認しているなら、その線で弁護方針を立てるべきというのが僕の意見です」都築が言った。「弁護人はあくまで依頼人の自己決定権を尊重するのが大原則。誠実義務に忠実であるべきです」
「しかし、すでに一度犯行を認める自白をしてしまった以上、裁判で不合理な否認とみなされ、依頼人にとって不利に働くおそれがあるのでは?」
「そんなことがあってはいけないんですよ、田口先生」都築がすかさず応じる。「それを認めてしまえば、個人の尊重という憲法13条の発露でもある黙秘権、つまり個人の尊厳そのものを否定することになる。そのような不利益推認は断じて許されない」
穏やかだが力強い口調。都築には権威や組織を後ろ盾としない、一人の人間としての自然な威厳が備わっていた。
「法解釈や理念について議論しているんじゃない。現実に即した対策を打つべきだと申し上げている」
二人は今日が初対面だが、二十期近い先輩である都築相手に、田口はみじんも斟酌(しんしゃく)するつもりはないようだった。
「それは妥協、いや、依頼人のための最善の防御の敗北そのものじゃないかね、田口先生。作家の村上春樹(むらかみはるき)は文学賞のスピーチで『高くて固い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ』と語ったが、依頼人という卵のため、現実という高くて固い壁に向かって法の理念というハンマーを振るうのがわれわれ弁護人の仕事だろう」
都築の方も一歩も譲る気はなさそうだ。
「この先、物証が出てきたらどうするつもりです?」
「それこそ、その局面に即してケース・セオリーを立て直すだけのこと」
「依頼人が噓をついていたら?」
「取調官に強要された虚偽自白のことなら、弾劾する。それ以外については──何度でも言おう、弁護人は依頼人の自己決定権を尊重すべきであると」
田口が皮肉な目を志鶴に向けた。
「頼もしい援軍だな」
「では、否認の線で進めるということでよろしいですか?」志鶴は言った。
「二対一で勝ち目があるのか?」
遺恨を残してしまうかもしれない。が、そもそも田口は志鶴と志を同じくして相弁護人になったわけではない。大切なのは依頼人である増山の権利を守ることだ。
「具体的な作業の分担は?」都築が言った。
「増山さんへの日々の接見とご家族との連絡、身体拘束からの解放に向けた活動については私が担当します」志鶴は答えた。「起訴が避けられないという前提で、お二人には公判前整理手続以降の調査、ケース・セオリーの構築、そして公判での法廷弁護のご助力をいただきたいと思います」
「うーん。大丈夫かね、川村君の負担は?」
「今持っている被疑者事件は増山さんの案件だけなので何とかなります」
「そうか。もちろん僕も接見は可能な限りするつもりだが、正直、この日本で捜査段階の弁護活動のモチベーションを保つのは難しい。結局、捜査弁護というのは身体の拘束問題──一刻も早く勾留を終わらせることと、取調べで不本意な自白をさせないこと──に尽きる。個々の弁護人の能力うんぬんではなく、個人の自由を抑圧する日本の刑事司法のシステム自体の問題だ。日本の刑事弁護の参考書では捜査弁護に大きくページが割かれているけれど、アメリカの場合、依頼人には『黙秘せよ』、捜査官には『自分の依頼人を取り調べるな』──これだけ言っておけばいいとしか書いてない。若い頃はそれでも頑張って闘ったもんだが。すまんが川村君、そこはお願いできると大いに助かる」
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