◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第49回

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第三章──物証 04
「あなたが検事に語ったことは事実なのか」田口に詰問された増山は……?

 忘れるはずがない。綿貫絵里香の遺体が発見されたのは荒川河川敷の西新井にある野球グラウンド近くで、岩切に訊かれた増山はその付近はもちろん、そもそも大人になってからは河川敷そのものに足を踏み入れていないと答えた。増山が通勤で使っている千住新橋は現場から五百メートルほど離れている。たとえその上から吸い殻を投げ捨てたとしても、とても届くとは思えない距離だ。

「──本当なのかね?」質問を発したのは田口だった。

 増山がはっとしたように彼に目を向ける。

「あなたが検事に語ったことは事実なのかと訊いている」

 増山が狼狽(ろうばい)した様子でまばたきをした。

「おかしいじゃないか。行ったことのない場所で吸い殻が発見されるなんて」

「で、でも……」

「あなたが喫っている銘柄の煙草の吸い殻が遺体遺棄現場で発見された。その吸い殻から採取されたDNAがあなたのものと一致した。すでにマスコミでも報道されている。検察側が裁判でこの強力な物証を持ち出してあなたの有罪を主張するのは間違いない。増山さん、それでもあなたは、そんな場所には行っていないと訴えるのか?」

 完全に詰問口調だ。口ごもる増山の呼吸が荒くなり、顔が紅潮してきた。

「田口先生」志鶴は口を出す。「やめてください、そんな言い方で増山さんを追い詰めるのは」

「裁判になればこんなものでは済まない。現場には行っていないのでなぜ自分の吸い殻が発見されたのかさっぱりわかりません──そんな証言を信じる裁判官や裁判員がいると思うか?」

「増山さんがびっくりされてます。落ち着いてください」

「それはこちらの台詞(せりふ)だ。増山氏の話は客観的な証拠と大きく矛盾した不合理極まりない否認だ。可能性は三つ。増山氏が噓をついているか、増山氏の記憶が誤っているか、証拠が間違っているか。増山氏は何年も現場に近づいていないと言っている以上、記憶の誤りとは考えにくい。捜査機関の誤りか虚偽でないなら、増山氏が噓をついているということになる。検察側がこの物証を根拠として起訴するのがほぼ確実な以上、対策を固めておくのは必須であり急務だ」

 田口は増山を見た。

「増山さん。もし噓をついているなら、すぐ撤回して正直に話してください。本当は最近、遺体遺棄現場に行ったのではないですか?」

「お、お、俺、俺は──」増山は田口を見て口をぱくぱくさせた。

「行ったんですね?」

 増山の顔がゆがむ。体を震わせ、首を横に振った。

「勘違いしないでほしいのだが」田口が言う。「私はあなたの味方だ、増山さん。裁判になれば証拠について検察官や裁判官に徹底的に説明を求められる。今のあなたを見る限り、噓をついているならその厳しい追及に耐えられるとはとても思えない。これだけの証拠が出て、否認を貫いて無罪を勝ち取れる見込みは絶望的だ。こちらの彼女が何を言ったか知らないが、否認だけが選択肢ではない。いったん犯行事実を認めたうえで責任能力を争ったり、罪を軽くするよう働きかけるという闘い方もある──」

「ちょっと、田口さん!」志鶴は叫んだ。「増山さんを惑わすようなこと言わないでください。方針については、さっき決まったばかりじゃないですか」

「私が納得したと言ったか?」田口が冷ややかな目を向け、増山に視線を戻した。「増山さん。こちらの川村弁護士は弁護士になってまだ一年目の新人です。私は彼女より二十年以上も先輩で、事務所では彼女の指導係をしている。熱心だがいかんせん経験不足。暴走して自分の思い込みに増山さんを巻き込んでいる。私はそう危惧してあなたに助言するために来た」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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