◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回
序章──予震 04
裁判員と裁判官に一度形成された有罪の心証を覆すのは困難だが──。


 ここから先はこれまで以上に細心を要する。法律を守って真面目に生きている市民が、犯罪者であっても味方をすることが前提である刑事弁護士に好意を抱くのは難しい。法廷における弁護人は、常にアウェーで闘うアスリートのようなものだ。ニュートラルな事実を述べてさえ反感を抱かれることを覚悟しなければならない。それ以上にデリケートな事柄へと分け入ってゆくのなら──技術はむろんのこと、薄氷を踏むような手術(オペ)に臨む外科医の胆力が不可欠だ。

 書画カメラを離れ、証言台の前へ進んだ志鶴は、栗原未央のものだけでなく、背後にも、自分の背中を刺すように見つめているはずの視線を感じる。

 傍聴席の最前列。白いカバーがかかった決まった席に、公判期日の間いつも座っているのは、亡くなった栗原学の母親だ。寡婦である彼女も被害者参加制度を使って当事者として法廷に入りたいと、被害者参加弁護士と検察官を通じて申し入れがあったが、志鶴はどうにか阻止した。

 初日から、彼女は、裁判所が彼女のために用意した席に、スリングに包まれた赤ん坊を抱いて座っていた。彼女の孫。亡くなった栗原学の、七ヵ月になる息子だ。

 栗原の母親も、栗原未央と同じように、いやある意味息子の妻以上に険しい視線を、公判の間、沙羅や志鶴に向けていた。配偶者を喪(うしな)うのと、お腹を痛めて産んだ子を亡くすのと、どちらの苦しみが勝るものか、志鶴は知らない。だが、想像することはできる。

 時に人の憎しみを買う覚悟はあるつもりだ。針に糸を通す慎重さで、事実認定者に対する自分の表情や声音をコントロールするよう心がける。

「天から授かった命を守り、全うする権利は、われわれすべての人間に与えられたものです。もし抵抗しなければ、いや、抵抗していたとしても、あのとき爪やすりを手にするという奇跡が起きなければ、圧倒的な力の差の下にあって、星野さんの命は暴力によって奪われていたでしょう。星野沙羅さんは、被害者です。殺意を持って星野さんを攻撃したのは、亡くなった栗原学氏の方でした」

 冒頭陳述でもすでに述べたことだが、事実認定者にとってショッキングな事実であるのは変わりない。故人を非難するトーンにならぬよう志鶴は神経を使った。もとよりそれは意図するところではない。

 栗原がなぜ、沙羅を殺そうとしたのか。

 彼女に、職場や妻に相談すると突きつけられ、自らの社会的地位を守るため、口封じしようとした。志鶴はそう推測している。どこまでも身勝手な話だが、残念ながらそうした動機で殺人を犯す人間もいる。

 被告人質問の主尋問で、沙羅と栗原のチャットの記録を証拠として提示し、彼が彼女に思いとどまらせようと懇願したりいくらか脅し気味に制止したりする文言を顕出させた。それを見れば誰でも、不倫という事実を職場や家庭に隠しておこうとしたことは推察できる。志鶴は、動機についてはそれ以上深追いしなかった。

 しかし、言うべきことははっきり言わねばならない。

「なぜ彼は、星野さんの部屋に上がっても、ドライビンググローブを外さずにいたのか? 素手で人を絞め殺すと、被害者の皮膚には指紋が残り、鑑識によって検出されることがあります。また、抵抗した被害者の爪が、首を絞めた人間の手に食い込んで、その組織が被害者の爪のなかに残ることもあります。救急隊員として変死体を扱った経験もある栗原学氏がその事実を知っていたとしても、不思議ではありません──」

「異議あり!」世良が立ち上がった。「ただ今の弁論は、根拠のない弁護人の憶測です」

「弁護人、ご意見は?」裁判長が志鶴に訊ねる。

「証拠に基づいた正当な議論です。検察官の異議こそ根拠がありません」

 裁判長は左右に座る、左陪席と右陪席の裁判官たちと小声で協議をしてから、検察官を見た。

「異議を棄却します。弁護人は続けてください」


里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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