◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第4回
序章──予震 04
裁判員と裁判官に一度形成された有罪の心証を覆すのは困難だが──。


 異議によって中断はされたが、裁判員や裁判官は皆、真剣な顔つきで自分の言葉に耳を傾けている。志鶴は、自分の弁論が今まさにこの瞬間、彼らの心証に食い込んでいるという手応えを感じていた。 

 静かに呼吸をし、事実認定者の一人一人に向かって、語りかけるように最後の訴えにかかる。

「本来、栗原学氏の殺人未遂行為を立証するのは、検察側の仕事です。冒頭陳述で裁判員の皆さんにお話ししたとおり、問題となっている犯罪について立証する責任を負うのは、検察官です。彼らの主張に論理的に疑う余地があることさえ示せれば、法的には充分事足りる。弁護人は、無罪を勝ち取るための責務を果たしたと言えます。にもかかわらず、弁護人があえてここまで踏み込んだ議論をしているのは、星野さんがそれだけ困難な立場に置かれていると考えるからです」

 自分の言葉は事実認定者たちに届いているはずだ。志鶴はそう願い、信じながら話す。

「私たちは、一人の善良な市民として、消防士のような、日頃から市民のために献身する、本来正義をなすべき職業の人が凶悪な犯罪を犯すと考えることに非常な抵抗を感じます。それは、治安がよいとされる日本に暮らす人間にとって、自然な感情です。しかし、その感情が判決に影響を与えるようなことがあってはなりません。星野さんは、抵抗しなければ自らの命を奪われるという、差し迫った危険に対し、身を守るため、やむを得ず、その場にあった爪やすりを手にしたのです。もし私が星野さんが追い込まれたような立場に置かれたとしたら、生きるため、きっと同じことをするでしょう。皆さんは、自分ならそんなことはしない、とお考えでしょうか?」

 詰問調にならぬよう注意して問いを投げかけてから、裁判員たちに考える時間を与えた。そして、彼らがまさにそうしていると感じる。

 志鶴はここに、被告人である星野沙羅のために立っているが、今、巧みな言辞を弄して事実認定者たちを丸め込もうとしているわけではない。星野沙羅から話を聞き、検察の訴えを検討し、数々の証拠と照らし合わせて矛盾のない事実と信じることを示しているのだ。

 裁判官も裁判員も、きっとそれをわかってくれている。九人の顔を見ながら、志鶴はそう感じることができた。あとは、彼らの背中をもう一押ししてやるだけだ。

「自分の身を守るために星野さんがした行為は、法律によっても権利が認められています。すなわち、正当防衛です。もし、星野さんがしたことが正当防衛でないのなら、正当防衛という制度が定められた意味なんてありません。そんな制度、いっそ廃止してしまえばいい──!」

 志鶴はここで息を吸うと、信念を持って断じた。

「──星野沙羅さんは、無罪です」

 その言葉が事実認定者たちに浸透するのを待って、口を開く。

「私の弁論はこれで終わります。皆さんが今日、この法廷にいらっしゃるのは、常識にしたがって自由な意見を述べるためです。私は、皆さんの常識と良識を信じています。ありがとうございました」

 法壇に向かって一礼する。

 ぴんと張り詰めた空気を感じる。

 顔を上げ、弁護人席へ戻る。やりきったという感触と共に。

 星野沙羅と目が合った。真っ赤だ。口がわなわなと震えている。顔中が涙にまみれていた。

「ありがとう……ございました……」美しい顔をくしゃくしゃにして志鶴に言った。

 志鶴はうなずきかけて、自らの席についた。続いては、被告人による最終陳述だ。裁判長に促され、星野沙羅が証言台に立った。彼女はまだ泣いていたが、大きく息を吸うと、話し始めた。

(つづく)

連載第5回


里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◉話題作、読んで観る?◉ 第9回「愛しのアイリーン」
物語のつくりかた 第9回 野島伸司さん (脚本家)