◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第50回

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第三章──物証 05
準抗告のため東京地裁に乗り込んだ志鶴は、判事の言葉で頭のなかが真っ白に。

 

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 翌日。

 午前中から民事訴訟の口頭弁論と別件の調停に立ち会い、いったん事務所に戻って打ち合わせや起案を済ませ、増山の案件で勾留と接見禁止に対する準抗告を行うため東京地裁へ乗り込んだ。前回と同じ担当の判事は志鶴を見るとかすかに顔を引きつらせたが、それ以上動揺を表に出すことはなかった。

「──せめて増山さんのお母様の接見禁止だけでも解除してもらえませんか?」

 志鶴が訴えると判事は視線を落とし、片手を口に当て「うーん」と唸った。

「それは何のために?」

「何のためって──家族だからです」

 いまだに返信のない杏を思い出しながら言った。

「なるほど。会いたい……個人的な感情ですね。ただ、わからないな。そうする必要はあるんですかね?」

「必要──?」声が大きくなった。「必要がなくても会いたいのが家族じゃないんですか?」

 判事は「なるほど」と言ったが、納得している様子は皆無だった。そのとき彼の背後から女性の書記官が近づいてきて、「判事。地検刑事部の岩切検事からお電話です」と声をかけた。

 判事が志鶴を見た。

「失礼。ちょっとよろしいですか?」

 胸騒ぎと共に「どうぞ」と答えていた。判事がソファから立ち上がって自席へ戻る。受話器を持った彼が何を話しているのかは聞き取れなかったが、通話を終えるまで志鶴は目を離すことができなかった。判事が戻ってくるとソファに腰を下ろした。志鶴が彼の言葉を待つ間に十秒ほど沈黙が流れた。判事は彫像のように動かなかった。

「……あの」志鶴は口を開いた。「今の電話、岩切検事からだと?」

「ええ」判事が答え、口を閉ざす。

「もしかして、増山淳彦(あつひこ)さんの身柄についてですか?」

「そうです」それからまた口を閉ざした。

 わざと気を持たせているのかもしれないと気づく。

「何と──?」

「被疑者を再逮捕するそうです。殺人の疑いで」

 腹に力を込めて受け止める。

「どういたしまして」判事が言った。

 意味がわからない志鶴に、恩着せがましく続ける。

「本来こうした情報を弁護士に教える義務はないんですよね、裁判所には」

「……ありがとうございます」仕方なく言った。

「これも親切で教えてあげますが、殺人についても認める自供をしたそうですよ、増山さん」

「──え」

 想定しているつもりだったが、頭のなかが真っ白になる。

 これまで目を合わせようとしなかった判事が、表情を変えないまま志鶴の反応をじっと観察していた。

「逮捕令状? そういえば、東京地裁の刑事部について何かおっしゃってましたよね? そう──自動令状発付マシーンだ。大変遺憾です。裁判所は、検察からの請求一件一件を精査したうえで令状発付の判断をしています。検察官に請求されたからといって何でも令状を発付しているわけではありません。本件についてもしかり。さて、たった今精査した結果を特別にお知らせしましょう。令状は直ちに発付します」

 表情筋に動きはなかったが、眼鏡の奥の目だけが笑ったように見えた。

「ご請求の件についてもお答えしますね。却下です──勾留に対する準抗告も、接見禁止に対する準抗告も認めることはできません。あしからず」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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